柳亭叢書(りゅうていそうしょ)覚ての夢(さめてのゆめ) 第一回〜第五回第六回〜第十回│第十一回〜第十五回

第一輯

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○覚ての夢 第十一回

強欲非道の又助は今[いま]三吉が耳よりの話しといふに膝[ひざ]を進め「如何[いか]にも貴所[こなた]の云[いは]るる通り表向[おもてむき]では飾ってゐれど引続ての災難に多くも持[もた]ぬ田畑まで皆[みな]質入[しちいれ]にした時宜[じぎ]なれば金さへ収入[はい]る事ならば如何[どん]な相談なりとても乗[のっ]て見やうと承諾すれば「[その][よ]い話は他でもない此[この]隣村の戸長どのは豊橋[とよはし]最寄[もより]で人も知[しっ]た代々の豪家[ぶげん]だけに御一新[ごいっしん]以来[このかた]は昔日[むかし]里正[しゃうや]の時とは違ひ何事も贅沢になり美しい妾[めかけ]があらば欲[ほし]いと云[いっ]てござッたが先頃鎮守の祭礼[まつり]のとき此方[こなた]の娘子[むすめご]お浜さんを不図[ふと]見初[みそめ]てから云[いは]っしゃるには彼[あの]娘なら支度金[したくきん]も直[すぐ]に出せるし殊[こと]には親父の又助どんも此[この]一二年の間の悪さに田畑[でんはた]を又抵当[かりいれ]に用立[ようだっ]た金もあれど彼娘[あのこ]が己[おれ]の家[とこ]に来たうへ能[よ]く勤[つとめ]てさへ呉[くれ]たら其[その]貸金もそれぞれに趣法[しゅほふ]を立[たっ]てやらふといふは旨い話しであるけれども嫁に遣[やる]とは異[ことかは]り此方[こなた]も昔年[むかし]先考[おやご]の代には赤原村でも屈指[ゆびをり]の門閥[いへがら]であらしったから妾[めかけ]に出す気は有[ある]まいが其[その]失礼も顧[かへり]みず何も此方[こなた]の為だと想って話しては見たものの必ず気に懸[かけ]さっしやるなよイヤイヤ如何[どう]して気に懸[かけ]るの腹を立[たつ]のといふ段か昔はともあれ今日[こんにち]では小作人も同じ身上[しんじゃう]しかし娼妓[ぢょらう]にでもするのなら耻[はづ]かしいといふ事もあれど此[この]近村[きんそん]に豪農[ものもち]と聞[きこ]えの高い戸長殿の妾[めかけ]になるのを厭[いと]ひませうぞ然[さう]なる時は当人の大僥倖[おほしあはせ]と成[なる]のだからお浜に於[おい]ては否哉[いなや]はなし早速に此[この]相談の整ふやうにして下されと頼む側[そば]から妻お作が「あの通りの不調法者を懇望[こんぼう]なさるは有難いが徳次郎といひ孫平といひ男の子は二人とも計らず非業な死を遂[とげ]て残るはお浜ばかり彼娘[あのこ]を余所[よそ]へ片付[かたづけ]て誰に家を継[つが]せませうぞ如何[いか]に出世をすればとてお浜は他家[たけ]へは遣[やら]れますまいイヤイヤ何も女の身で嘴[くち]を出す幕ではないわェ当人はいふ迄もなく両親[おやおや]迄が浮[うか]み上[あが]る出世は是[これ]から願ふてもならぬ一家[いっけ]の僥倖[しあはせ]なればお浜は他家[よそ]へ縁付[えんづけ]ても親類うちから養子を貰へば血統[ちすじ]の絶[たえ]る訳ではなし唯[ただ]何事も己[おれ]に任[まか]して黙ってゐろ圧制に此[この]縁談を独[ひとり]受合[うけあ]ひ三吉に媒酌[なかだち]を頼めば幸[さいは]ひ言甲斐[いひがひ]ありと三吉も雀躍[よろこび]て戸長の許[もと]へ立越[たちこえ]つ事云々[しかじか]と語りしかば相談迅[はや]く整ひて結納[ゆいなふ]に添へ支度金[したくきん]をも渡されたれば又助は只顧[ひたすら]にうち喜び良日[よきひ]を撰びて送らんと待[まつ]に引[ひき]かへ妻お作と娘お浜が意[こころ]の中[うち]の其[その]物憂[ものう]さは如何[いか]ならん

▼豊橋最寄…豊橋のあたり。
▼豪家…分限。おおがねもち。
▼御一新…明治維新のこと。
▼里正…庄屋どん。
▼身上…みのうえ。境遇。
▼否哉…いやだと拒否すること。
▼圧制…むりやりに。
▼良日…暦のうえでえんぎのいい日。

○覚ての夢 第十二回

衣手[ころもで]の山の麓[ふもと]にたつ鹿の妻恋[つまこ]ふころを狩人[かりうど]の矢矧[やはぎ]に覘[ねら]ふ暁[あかつき]星野の郷[さと]を右に視[み]て花園山[はなぞのやま]の鶉[うづら]なく末野[すゑの]の原の草も木も錦に染[そむ]るあめ山に濡[ぬれ]て乾かぬ挙母[ころも]の里の二人がなみだ花の滝[たき]緑の池の色深く末の末まで変[かは]らじと宮地[みやぢ]の山の神かけて誓ひし甲斐[かひ]も荒野[あらの]吹く風も無常の鐘[かね]誘引[さそ]ふ心[こころ]細川[ほそがは]たどり来て三河名所の見をさめと泣入[なきい]るお浜を抱起[だきおこ]し「今更いふても帰らねど此[この]徳浄がないならば貴嬢[おまへ]は戸長の奥様と呼[よば]るる程の僥倖[しあはせ]は其身[そのみ]ばかりか両親[ふたおや]までの出世の端緒[いとぐち]を何[なん]といふ悪縁なれば倶共[ともども]に死[しん]でくれとの志操[こころざし]は嬉しいけれど徳浄は破戒の身ゆゑ仏の御罰[ごばつ]で死[しぬ]とも恨[うらみ]はなけれども貴嬢[おまへ]は何[なん]の罪もなく莟[つぼみ]の花の年なれば拙僧[わたし]の事は思ひきり赤原村へ帰って下され是[これ]じゃ是[これ]じゃと拝む手を払ふてお浜は頭[かぶり]を振り「[この]縁談のない前から若[もし]や二人が添[そは]れずば死[しな]ふと云[いっ]た約束を貴僧[おまへ]はお忘れなすったか他に良夫[おっと]は持[もち]ますまいと誓ひを立[たて]た仏様も可哀さうだと思召[おぼしめ]し極楽とやらへ導いて蓮[はす]の台[うてな]の末永く女夫[めをと]にさせて下さいと有明月[ありあけづき]の落[おち]かかる西の端山[はやま]を伏拝[ふしおが]み死[しぬ]る覚期[かくご]の潔[いさぎよ]く禁[とむ]れど止[とま]らぬ悪縁[あくえん]は親の因果は身の回[めぐ]細帯[ほそおび]とくとく徳浄が[まるぐけ]の端[はし]に結びし末を我が下〆[したじめ]に結びつけ吉田の橋の中央[ただなか]より南無阿弥陀仏の一声[ひとこゑ]を名残[なごり]にドウと飛入[とびいり]し二人が死骸は水のまにまに流れ流れて赤原村の岸[きし]に漂[ただよ]ひ着[つき]たる折[をり]から母のお作は一昨日[おとつひ]より娘の家出したりしを孫平徳次の例[こと]さへあれば大方[おほかた]ならず心労して村中の人を頼み此所[ここ]よ彼所[かしこ]と探さすれど所在[ありか]の知らねば気も半乱夜の間[ま]も眠[ねぶ]らで馳巡[はせめぐ]り暁[あかつき][つぐ]る鴉[からす]の声も常にはあらで気に懸[かか]り河辺[かはべ]づたひに来る折[をり]しも岸[きし]の汀[みぎは]に鴉[からす]の群居[むれゐ]て物悲し気に啼[なく]さまは要[えう]こそあらめと立寄[たちより]見るに流寄[ながれよっ]たる男女[なんにょ]の死骸は是[これ]別人[べつにん]に あらずして菩提所の徳浄と娘のお浜なりしかば叫[あっ]とばかりに駭[おどろ]きて地上へ動[どう]と伏転[ふしまろ]び悲歎[ひたん]やるかたなかりけり

▼星野の郷…三河の国の地名のひとつ。「暁の星」とのかけことば。このあたりは浄瑠璃っポク、地名をおり込んだ文句になっています。
▼神かけて…かみさまに誓って。
▼破戒…いましめを破った身。ここではお浜と恋仲になった徳浄の色欲。
▼思ひきり…スッパリわすれて下され。
▼細帯…幅のせまい帯。
▼丸戟c内側に綿などを入れてある帯。
▼下〆…着物を着るとき着物の下にしめる帯。
▼吉田の橋…矢矧の橋。吉田にあった大きな大きな橋。
▼気も半乱…半狂乱の態。
▼地上…地べた。

○覚ての夢 第十三回

虫の知[しら]せか又助も前の夜[よ]よりして家を[いで]お浜が踪蹟[ゆくゑ]を其許這許[そこかしこ]と尋[たづね]わびつつ言合[いひあは]さねど吾子[わがこ]の死骸の流れ寄[より]し河原に来[きた]りてお作と共に面[かほ]を見合せ詞[ことば]もなく余[あまり]の事に呆れ果[はて][ただ]茫然たる折[をり]しもあれお浜が死骸の側[かたは]らなる蘆[あし]の茂みに朦朧[もうろう]と人の立[たち]ゐる如くなれば瞳を定めて之[これ]を見るに先年縊[くび]り殺したる越中国射水郡[いみづごほり]友坂村[ともさかむら] 浄覚寺の了実和尚が煙[けぶり]の如く立顕[たちあらは]れ莞爾[にっこ]と笑[えみ]たる景状[ありさま]神経病の所為[なかわざ]にやお作が眼[め]には遮[さへぎ]らねど又助には現然[ありあり]と見えたりしかれば年来強欲非道の又助が身の毛も立[たっ]て色青ざめ初[はじめ]改悟[かいご]の念を発[おこ]し河原に座して号哭[なきさけ]び「[ああ][あやま]った過[あやま]った物の報[むく]いと天罰は世にないものと思っていたが今日といふ今日思ひ知[しっ]た今迄[いままで]尽しし悪業の親の因果が子に報い三人の子が三年続きに皆[みん]な非業な死を遂[とげ]たも此[この]又助が手を下[おろ]して殺さぬ計[ばかり]の非道の報い女房[にょうぼ]が異見[いけん]も馬の耳に念仏一遍唱へもせぬゆゑ了実様の怨魂[えんこん]宙宇[ちうう]に迷ってござるも道理[だうり]遅蒔[おそまき]ではあらふけれど今から罪障懺悔[ざいしゃうざんげ]の為に所有品[ありあふしな]を売払ひ坊主に成[なっ]て高野山へ金を納めて了実様の御菩提を吊[とぶ]らふたうへ了実様の御住職[おすまゐ]なされた越中の浄覚寺へ自訴[じぞ]するとも生涯回国巡礼の乞食と成[なっ]て果[はて]るとも罪亡[つみほろぼ]しをせねば成[なら]ぬ親子の間は詮方もなけれど未[ま]だ年若[としわか]な徳浄殿まで繋がる因果に情死[しんぢう]されたも此[この]又助が醸[かも]した禍[わざは]ひ如何[どう]ぞ堪忍[かんにん]して下されと両手を合[あは]せ伏拝[ふしおが]み前後生躰[ぜんごしゃうたい]なき叫べばお作は涙をおし拭[ぬぐ]ひ「[その]心が早く就[つい]たら斯[かう]いふ歎[なげ]きはあるまいけれど三人の子が死[しん]だ為に善心に立戻[たちもど]られたは歎[なげ]きの中[うち]の一安心[ひとあんしん]高野山を初めとして諸国修行にお出[いで]なら子に先立[さきだた]れて生残[いきのこ]り楽[たのし]みのない吾儕[わたし]も同行[いっしょ]に生涯乞食をしませうが何は兎[と]もあれ此[この]河原に歎[なげ]いてゐても詮かたないこと早く死骸を引揚[ひきあげ]お届[とどけ]をせねば成[なり]ますまいと夫婦は岸[きし]に下立[おりたち]て力なくなく二人の死骸を揚[あぐ]る折[をり]から村の者も此[この]騒動を聞伝[ききつた]へ走り来[きた]ッて大[おほひ]に驚き夫婦に悔[くやみ]を述[いひ]ながら力を添[そへ]て河原へ引[ひき]あげ徳浄が師の坊も立会[たちあひ]にて検屍[けんし]も済[すみ]しが此[この]徳浄には親族[みより]もなく幼少より寺へ引取[ひきとり]養育したる者なれば他に関係のなきを以[もっ]てお浜と共に同寺へ葬り[ため]に追善功養[つゐぜんくやう]を営み四十九日も済[すみ]ければ又助は剃髪して所有地家財を売払ひ負債[しゃくきん]その他[た]の片[かた]をつけ残るを高野[こうや]へ納[おさめ]る金を旅費[ろよう]に充[あて]て懐中し祖先の代より住馴[すみなれ]たる三河国を後[あと]にして先[まづ]紀伊国を志[こころざ]し又助夫婦は発程[たびだち]ける

▼神経病…明治10年代以後、よく幽霊の描写につかわれた常套句。
▼改悟の念…罪をくいあらためるこころ。
▼宙宇…この世とあの世のあいだ。
▼自訴…罪を自白すること。
▼お届…警察に届出をだすこと。
▼師の坊…徳浄のお寺(香華院)の和尚さま。
▼為…お浜と徳浄の霊のため。
▼剃髪…あたまをまるめて僧になる。
▼紀伊国…まずは高野山へ行くので紀伊に向かいます。

○覚ての夢 第十四回

仏経に曰[いはく]一念発起菩提心勝於造立百千塔と又助夫婦煩悩[ぼんなふ]を断離[だんり]正覚[しゃうがく]に帰[き]せば人は唯[ただ]善を修[しゅ]して悪を退[しりぞ]け子孫に禍[わざは]ひあらせじと願ふ所を子供等[こどもら]が横死の為に漸[やうや]く覚[さと]り罪障懺悔[ざいしゃうざんげ]をなさんとて野に臥[ふ]し苫[とま]を枕[まくら]とし明治八年の冬に至り紀伊国牟婁郡[むろのこほり]合川村[あひかはむら]までたどり着き或[あ]木賃宿[きちんやど]に泊[とま]りし夜[よ]より夫婦等しく病[やま]ひに臥[ふし]て高野山へも参詣せず六七十日悩みゐたるが今更[いまさら][おし]む身ならねど彼[か]の宿願を果[はた]さんとて療用[れうやう][おこた]りなかりければ薬の代[しろ]と宿料[しゅくれう]に齎[もたら]し果て納め物も路用も既に遣[つか]ひ尽して漸[やうや]く病[やまひ]の癒[いえ]たれば納める金はあらずとも高野[かうや]へ詣[まうで]て願意[ぐわんい]をとげ夫[それ]より越中へ赴[おもむ]かんとて旅舎[やどや]を出[いで]しその時は歳の瀬近き大雪[おほゆき]の朝より降[ふる]に歩行[あゆみ]悩みて大伏[おほなほし]の大病はまた忽地[たちまち]に再発し一足[ひとあし]も曳難[ひきがた]ければ路[みち]の傍[かた]への楠[くす]の蔭[かげ]に憩[やすら]ふ良人[つま]を介抱する お作も酷[つら]き寒気[かんき]に冒[おか]され持病の癪[しゃく]に閉[とぢ]られて共に深雪[みゆき]の中に転[まろ]び苦しみ呻[うめ]けど要心の薬も持[もた]ず雪故[ゆきゆゑ]に往来[ゆきき]の人も通はねば進退[しんたい]ここに谷[きは]まりて是[これ]さへ積[つも]る宿業を果[はた]す秋[とき]かと身の非を顧[かへり]み泣悲[なきかなし]むうち日は昏[くれ]て其許[そこ]とも知らぬ原野[はらなか]の雪と消[きえ]んと覚期[かくご]を極[きは]め共に称[とな]ふる念仏の声も次第に凍りゆく夜風にいとど身は冷[ひえ]て吐嗟[あは]や死なんと想ふ折[をり]から遥[はるか]に照[てら]す提灯[ちゃうちん]の這方[こなた]へ向[むか]ひて来るを見れば蓑[みの]と笠[かさ]とに容貌[おもざし]は見分[みわか]らねども老僧のに持[もた]せし提灯にて又助夫婦が病難に苦しむ体[てい]を夫[それ]と見て二人が二人を抱起[だきおこ]し「何国[いづく]の人かは知らねども雪に悩むで取 詰[とりつめ]られたか人を救ふは出家の本分[ほんぶん][こと]回国修行者[くわいこくしゅぎゃうしゃ]なるは笈摺[おひづり]に国所[くにどころ]を記してあるを見て知れば直地[すぐさま]寺へ伴[ともな]はんとは思へども拙僧と僕の力に二人の者を脊負[しょっ]ては歩行難[あるきがた]けれど常に吾[わが]乗る駕[かご]を舁[つら]せ村の者を迎[むか]へによこさん且[かつ]我寺[わがてら]へは故[ゆゑ]あって二人を迎へ兼[かね]るゆゑ門前に樒[はな]を売る久七といふ者の内[うち]で療治[れうぢ]をさせて遣[やら]ふほどに薬料其他[そのた]の入費[いりよう]に必ずとも心配なく緩々[ゆるゆる]と養生せよと懇[ねんご]ろに説示[ときしめ]して一個[ひとり]の僕を看護に残し老僧は雪中[せっちう]を走り帰れば程もなく長棒[ながぼう]の朱塗[しゅぬり]の駕[かご]を四五人の百姓に舁[かか]せ夫婦を乗[のせ]て合川村の源空寺の門前なる久七の家へ迎へ残る方[かた]なく療用[れうよう]せしかば夫婦が必死の大病も日を追[おっ]て快[こころよ]く凡[およそ]四五十日間[かん]にて本[もと]の姿に復したれば其[その]喜びは大方[おほかた]ならず斯[かく]ては歩行[ほかう]も自在なれば高野[かうや]へ詣[まうで]て宿願を果[はた]すべしとて久七に向[むか]ひ「袖振[そでふり]あふも他生の縁で赤の他人の貴方には長いお世話になりまして斯[かく]大健康[だいぢゃうぶ]に成[なっ]たうへは一日も早く出立[しゅったつ]して高野山から諸県下を礼拝致す積[つもり]なれば明日[みゃうにち]お暇[いとま]致すに付[つい]て御住寺[おじゅうじ]様に御目通りが出来ますならば是迄御厚い療用にお礼を一言[ひとこと]申上度[まをしあげたく]存じますが 面謁なされてくださらふか憚[はばか]りながらお取次[とりつぎ]を何卒[どうぞ]御願ひします他事[たじ]なく頼めば久七が「[それ]は容易なお頼みだが和尚様は如何[だう][おっしゃ]るかマァ伺[うかが]って見ませうと寺へ行[ゆき]しが程もなく立帰[たちかへ]って又助に「唯今[ただいま]朝の勤行[おつとめ]が済[すん]だら直[すぐ]に会[あは]ふから急いで此処[ここ]へ連[つれ]て来いと御本堂に待[まっ]ててくだされば私[わたし]と一所に斯[か]うござれと先に立[たっ]て案内し勝手口より本堂に至れば持仏[ぢぶつ]の尊前[おんまへ]に聖僧[ひじり]は座して夫婦を招き「汝等[そなたたち]はこの和尚をよも見忘れはしまいなと声懸けられて又助おさくは恐る恐る老僧の容貌[かほ]を見あげて駭然[びっくり]し此[こ]は乍麼[そも]如何[いか]にと茫然たり

▼仏経…経文。
▼一念発起菩提心…一念発起をして悟りに向かって身をたてることは、何百何千の仏塔を建立するだけの事よりも貴いということ。
▼正覚に帰せば…こころの目がさめた。
▼明治八年…1875年。
▼木賃宿…囲炉裏などで使う薪代だけを払って泊ることの出来る安い宿屋。ごはんは自分で用意をします。
▼薬の代…くすりを買うためのおかね。
▼歳の瀬…年末。
▼持病の癪…さしこみ。急激にお腹に走る痛みのこと。
▼僕…めしつかい。
▼出家…僧侶。
▼回国修行者…各地の寺院を参拝してまわる巡礼さん。
▼笈摺…巡礼が白い着物の上に着ていた袖のついてない着物。
▼必死の大病…生命を落とす寸前にまで迫った病気。危篤の重病。
▼他事なく…まごころから。
▼持仏…本堂にまつられている仏像。

○覚ての夢 第十五回

其時[そのとき]聖僧[ひじり]は席を進み「御夫婦は今以[いまもっ]て異[かはり]もなくてまづは重畳[ちゃうでふ][いぬ]慶応元年の春[はる][われ]は汝[そなた]に縊殺[くびりころ]され其後[そのご]の事は知らざりしが焚火[たきび]に体を暖められ初[はじめ]て蘇生[こころつい]て見れば同国の某氏[なにがし]の厚き 情[なさけ]を蒙[かふむ]りて死体を流[ながれ]の末より引揚[ひきあげ]介抱されて趣[おもむ]きなりしが此時[このとき][なんぢ]の悪事を話し県庁へ訴[うった]へ出[いづ]れば直[すぐ]にも汝[なんぢ]は罪せらるれど倩々[つらつら]吾身[わがみ]を顧[かへりみ]れば又助殿は吾為[わがため]大知識[だいちしき]ともいふ謂[わけ]は浄覚寺の住職と成[なっ]て檀家[だんか]の者に寄進[きしん]を募[つの]り本堂建立をなさんとせしは名利を脱離せざるに似て出家の甚[はなは]だ耻[はづ]べき所俗家[ぞくか]に募りし大金を持[もち]たればこそ又助殿の為に命を落[おと]したるも皆[みな][わが]過失[あやまち]なりと暁[さと]り却[かへ]って汝[そなた]を知識と思ひ毫[すこし]も怨む所なく我自[われみづか]ら過[あやま]って崕[がけ]より転び落[おち]しと語り僥倖[さいはひ]にして身の中[うち]に傷もつかねば其日[そのひ]より本堂建立の念を断[たち][すぐ]に越中へ越中へ立帰[たちかへ]りしが吾[われ]は元[もと]紀州の産にして此[この]源空寺の徒弟[でし]なるが師の坊此程[このほど]往生せられ後住[ごぢう]の者なきに依[よ]り越中より呼上[よびのぼ]され此寺[このてら]に襲りしが去年の暮[くれ]の雪の日に檀家の仏事に招かれて帰る途中に行悩[ゆきなや]む汝衆[そなたしゅ]二人を介抱しながら疾[はや]くも夫[それ]と心づき我為[わがため]の大知識なれば療治[れうぢ]を加へ本復[ほんぶく]させしは吾[われ]も汝[そなた]も命運の未[いま]だ尽[つき]ざる幸福[さいはひ]なりと語れば夫婦は耻入[はぢいっ]て頭[かうべ]も上得[あげえ]ずゐたりしが又助き涙にくれ「申上[まをしあげ]ます詞[ことば]もなく重々[ぢゅうぢゅう]恐入[おそれいり]ましたが吾輩[わたし]が年来の悪心を改めて斯[か]う回国に出る仔細は貴僧[あなたさま]の御菩提を吊[とむら]ふ為でござりますとお浜徳次郎孫平等[ら]が横死の事を夫婦の者は交[かは]る交[がは]るに語りて後[のち]に「[ただ]不思議なは貴僧[あなた]が斯[か]う御無恙[ごけんしゃう]でゐさっしゃるに何の祟[たたり]で子供等[ら]が非業の死を致したやらまた怪しいはお浜が死骸の流れ寄[よっ]た川端[かはばた]の蘆[あし]の中に貴僧[あなたさま]の御姿が莞爾[にっこり]笑って居てござった其怖[そのおそ]ろしさに悪念の発起[ほっき]した程なれど生[いき]て御座って幽霊に出るとは一円合点[いちゑんがてん]が参りませぬと訝[いぶか]れば「極重悪人無他方便唯称名字必生我界の本願は一切衆生の為にして仏は凡夫[ぼんぷ]に叛[そむ]かねど凡夫は却[かへっ]て仏に叛[そむ]き前夜[さきのよ]路傍に苦[くるし]みし雪より淡き人の身なるに後世[ごせ]を覚[さと]らず本善の善を人欲[じんよく]の私[わたくし]に蔽[おほ]はれ無量の悪事を為故[なすゆゑ]に神経狂ひて蘆[あし]の戦[そよ]ぐも了実が怨魂[おんれう]かと見るは疑心暗鬼を生ずるなり人[ひと]心鎮[こころしづま]りたる時は漸[やうや]く吾[わ]が悪を知れど過[あやま]って改むるに至らねば天[てん]必ず物に仮托[かたく]し是[これ]を刑罰せざらんや総[すべ]て怨魂[おんれう]の祟[たたり]を為[な]すは我より彼を惹[ひく]に成る風 は声なき物なれども樹を過[すぐ]る時[とき][はじめ]て顕[あらは]れ金石[きんせき]の動く事なきも物[もの][これ]に触[ふる]れば必ず声あり則[すなは]ち我より彼を惹[ひく]なり所謂[いはゆる]生霊[いきりゃう]は風の樹を過ぎ死霊[しりゃう]は金石の物に触[ふる]るが如し汝等[そなたら]夫婦は薄命にして仮令[たとへ]犯せる罪はなくとも子に先立[さきだた]るる宿縁あるも又助殿の所業に於[おい]て積悪の家に余殃[よわう] ある報[むく]いは何[いづ]れも病[やま]ずして非命に死せるも道理[ことわり]なり然[しか]れども其罪[そのつみ]を懺悔[ざんげ]し高野[かうや]に登[のぼっ]て菩提を吊[とぶら]ひ越中に行[ゆき]て自首せんといふ善心の起[おこ]る所を以[もっ]て又喜ぶべき報いあり吾[われ]は去[いぬ]る明治五年の夏法用あって当地より度会[わたらひ]下へ至りし帰路[きろ]志州鳥羽港を通行せしに暴風[はやて]に難船したる者の死骸を漁夫等[ぎょふら]が引揚[ひきあぐ]る中に十六七と見ゆる男の体中に未[ま]だ温脈[あたたま]りのありと聞[きい]て何卒[なにとぞ]して助けんと旅費を散じて介抱させし其甲斐[そのかひ]ありて蘇生[よみがへ]り其[その]国所[くにどころ]を尋ぬれば豈計[あにはか]らんや吾[われ]を殺しし又助殿の次男なれば不思議の奇偶[きぐう]を頻[しきり]に感じ父が悪事の報[むく]いならんと因果の道理を説示[ときしめ]し路用を与[あたへ]て帰さんとしたるに徳次郎は汝[そなた]に似ぬ善良の性[もの]なれば父が悪事を聞[きい]て驚き母お作の立[たて]たる塚にて弟[おとと]孫平が縊死[くびれし]しも悪報ならんと吾[われ]に語[かたり]て仏罰[ぶつばつ]の恐[おそろ]しき事を悟り父が悪業を消滅する為[ため][わが]弟子にしてよと望む其志[そのこころざし]の頑[かたくな]なれば直[すぐ]に寺へ連帰[つれかへ]り堅固[けんご]に修行をなすれども未[ま]だ年若[としわか]の事なれば心変[こころがは]りがなはんかと終[おはり]を見届[みとどけ][かた]ければ追[おっ]て修行の積[つみ]しうへ故郷[こきゃう]へも告[つげ]知らせんと今日[こんにち]迄も手許[てもと]へ置[おき]たり今[いま]両親が全くの善心に立戻[たちもど]られしや否[いな]や計[はか]り難[がた]ければ傍近[そばちか]く住[すみ]ながら親子の対面を免[ゆる]さずして寺へ入[いれ]ぬは互ひの為を思へばなり唯今[ただいま]の話しに因[よっ]て改悟[かいご]の体[てい]を見届[みとどけ]たれば久し振[ぶり]にて対面されよ了念[れうねん]了念[れうねん]と呼出[よびいだ]せば襖[ふすま]の外に最前[さいぜん]より父母[ふぼ]の話を洩聞[もれきき]て涙に昏[くれ]たる徳次郎は夫婦が前に走出[はしりいで]おなつかしふございましたオオ徳次郎か能[よ]くマァ無事で夢ではないかと思ふ再会是[これ]も偏[ひとへ]に和尚様の重ね重ねの御高恩[ごかうおん]と親子手に手を取[とり]かわし嬉し涙に伏沈[ふししづ]めば了実上人莞爾[にっこ]と笑みて「一人[いちにん]出家を遂[とぐ]る時は九族天に昇るといへば了念が道徳堅固なる時は先立[さきだち]し姉も弟[おとと]微妙[みめう]の御法[みのり]に遭[あふ]なるべし此[この]了念が勢州にて沈没したる其時[そのとき]に膚[はだ]に付[つけ]たる胴巻[どうまき]楮幣[きんさつ]百円余[あまり]ありしを其侭[そのまま]に我[われ]に預[あづけ]て今も尚[なほ]此処[ここ]に在るは了念が出世の後[のち]に返さんと思ひしが素[もと]これ汝[そなた]の物なれば持返[もちかへ]られよと渡されて「イエイエ金は吾輩[わたくし]からこそ貴僧[あなた]へ御返し申[まをす]べきに海へ沈むでない物と諦めたうへ乞食して回国[くわいこく]するに金を持[もっ]は貴僧[あなた]が能[よ]い亀鑑[おてほん]金が敵[かたき]の世の中なれば是[これ]は此侭[このまま]尊寺[おてら]と押返[おしかへ]せば手に採[とっ]て「如何[いか]さま一端[いったん]金ゆゑ殺された了実が此[この]源空寺へ後住[なほっ]てからは不自由する事もなければ此[この]百円を切半[ふたつわり]に五十円は了念が同胞[きゃうだい]の為と徳浄とやらが菩提の為に施餓鬼[せがき]を執行[しぎゃう]し貧者[ひんじゃ]に与へ賑はすべく五十円は老夫婦が余命もなきに回国[くわいこく]するは了念が為に忍びざる所あれば住馴[すみなれ]三州へ立戻[たちもど]り回国修行の心を忘れず道心堅固に子供等[ら]が跡[あと][ねんご]ろに吊[とぶら]はれよと残る方[かた]なく聖僧[ひじり]の明断を夫婦は其意[そのい]に従ひて感涙を止[とど]め敢[あへ]ず大施餓鬼[だいせがき]の法要[には]に列[つらな]り遂[つひ]に別れて寺を去[さり]再び豊橋へ立戻[たちもど]り小[ささ]やかなる庵[あん]を結び道心堅固に今も尚[なほ][おこな]ひ澄[すま]して在[あり]といふ因果応報の物語は狂言綺語の類[たぐひ]にあらぬ現在の実事[じつじ]にして僅[いささ]か婦幼[ふえう]の教草[おしへぐさ]と成[なる]べき所なきにあらねば叢書の巻頭に掲[かか]げつ(覚ての夢 終)

▼慶応元年…1865年。
▼大知識…悟りのための一大物。大般若。
▼俗家…一般のひとびと。
▼師の坊…教えをこうた僧侶。
▼往生…あの世にひっこす。
▼一円合点…すっきりと納得する。
▼後世…来世。転生したさきの世。
▼生霊…生きている人間の中から感情が魂となって抜け出て想いの相手のもとに現われたりするというもの。
▼死霊…既に死んでしまった人間の感情が現われ出るというもの。
▼度会県…明治9年に三重県に合併されるまで存在した県。
▼志州…志摩の国。
▼微妙の御法…みほとけのご加護。
▼勢州…伊勢の国。
▼楮幣…金札。紙幣。おさつ。
▼三州…三河の国。
校註●莱莉垣桜文(2010) こっとんきゃんでい