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硝灯之怪談(ランプのかいだん)
本文
諺[ことわざ]に曰[いは]く▼頭髪全禿而[あたまはげても]煩悩未止[うはきはやまぬやまぬはずだよさきがない]▼蓋[けだ]し春秋[しゅんじゅう]に乏しきを以[もっ]て也[なり]▼信なる哉[かな]言乎[げんや]▼皇城[こうじょう]の北、牛込[うしごめ]某▼坊に煩悩未[いま]だ止まざるの▼一禿翁[いちとくおう]有り齢[よはひ]▼耳順[じじゅん]に近ふして▼健[けん]壮士を欺[あざむ]き唯[ただ]冠を衝[つ]く髪無きのみ蓋[けだ]し▼一物[いちぶつ]の▼[金+矍]鑠[かくしゃく]たるは亦[また]想ふべき也常に神楽坂[かぐらざか]の▼妓窟[ぎくつ]に游[あそ]んで(此地[このち]山手[やまのて]▼芸妓[げいぎ]の巣窟為[な]り)▼洒権[しゅけん]専[もっぱら]にして屡[しばしば]醜行[しゅうこう]あり
▼妓[ぎ]呼[よび]て硝灯公[ランプこう]と曰[い]ふ但[ただ]し禿頭[はげあたま]の光り硝灯[ランプ]の明[あかり]に異[こと]ならざるを以て也(昔日[せきじつ]之[これ]を▼薬碗[やくわん]頭と謂ふ)翁[おう]酔へば則[すなは]ち▼春情[しゅんじょう]勃起[ぼっき]恰[あたか]も▼樊[口+會][はんかい]が堅陣[けんじん]を衝[つ]くが如く▼勇進突前[ゆうしんとつぜん]殆[ほと]んど抑止すべからず▼梅児[ばいじ]を▼捕[とら]へて強ひて之[これ]を挑み▼小桜[しょうおう]を抱[かか]へて之[これ]を折[おら]んと欲[ほっ]し▼縦横突衝[じうおうとつしょう]飽[あく]まで醜態を露[あら]はすと雖[いへど]も妓[ぎ]皆[みな]嫌厭[いやがる]左に避け右に遁[のが]れ或[あるひ]は罵[ののし]り或は嘲[あざけ]り曽[かつ]て応ずる者無し
妓[ぎ]翁[おう]を見れば則[すなは]ち可厭[いやな]硝灯[らんぷ]と曰[いひ]て皆[みな]之[これ]を避[さけ]んと欲[ほっ]す翁[おう]家富むと雖[いへど]も▼性[せい]甚[はなは]だ▼吝[りん]にして尋常の▼纏頭[てんとう]の外[ほか]曽[かつ]て一銭を投ぜず▼徒手[としゅ]以て▼活花[かつか]を専らにせんと欲す蓋[けだ]し▼転字[てんじ]の談[だん]調[ととの]ふ能[あたは]ざる所以[ゆえん]なり
且[か]つ翁が顔色を覩[み]るに皺波[しわ][桑+頁][ひたい]に漲[みな]ぎり色▼渋紙[しぶがみ]の如く[鼻+九]涕[みずはな]は鼻に溢[あふ]れて湿▼梅雨[ばいう]に似たり最も▼捧腹[ほうふく]すべきは則[すなは]ち▼笑口[しょうこう]開[ひらき]て入歯[いれば]を誤脱[はづす]は凡そ数回也[なり]妓[ぎ]の嫌厭[けんえん]するも亦[また]宜[むべ]ならざる乎[かな]
翁[おう]殊[こと]に▼一雛妓[いちすうぎ]に▼眷恋[けんれん]し屡[しばしば]迫[せまり]て之[これ]に説[と]き喰はしむるに▼[火+畏]薯[やきいも]▼炒豆[いりまめ]を以てすと雖[いへど]も妓[ぎ]敢[あへ]て聴かず妓[ぎ]年未[いま]だ▼二七[にしち]に過ぎず(▼旧暦に因[よ]る)而[しか]して頗[すこぶ]る▼敏才[びんさい]有り毎[つね]に▼硝灯[らんぷ]を嘲弄して曽[かつ]て▼畏[おそ]るる所を見ず
硝灯[ランプ]本年本月某日を以て▼其の妓[ぎ]を招き▼俳優肖像[やくしゃにがほ]の羽児板[はごいた]を与へて又之[これ]に挑む妓[ぎ]▼帯間[たいかん]を探[さぐり]て▼懐鏡[かいきょう]を出[い]だし▼従容[じゅうよう]として曰[いは]く「▼尊爺[そんや]未だ曽[かつ]て鏡に対せざる乎[や]試[ためし]に此の鏡に照らして▼看一看[かんいっかん]せよ爺[や]が頭は滑然[すべすべ]として一髪[いっぱつ]の痕を見ず此の▼頭顱[とうろ]を捧げ此の▼淫逸[いんいつ]有り▼老耄[ろうもう]に非[あらざ]れば則[すなは]ち▼顛狂[てんきゃう]也[なり]硝灯[ランプ]少しく顧[かへりみ]る所有れよ
翁[おう]莞爾[かんじ]として笑[わらひ]て曰く「▼児[こ]が▼諌[かん]して切[せつ]なりと雖[いへど]も翁未だ従ふべからず児[こ]却[かへり]て従はざるべからざるの理有り翁は則[すなは]ち固[も]と硝灯[ランプ]也[なり]児は則ち▼肥満して頗[すこぶ]る膏沢[あぶらけが]有る故[ゆゑ]に児が▼余膏[よこう]を借りて翁が硝灯[ランプ]に燃[とぼ]さんと欲す且つ児は則ち猶[な]お▼瓦[怨-心+皿][かはらけ]也[なり](曽[かつ]て之[これ]を▼混堂[ゆや]で検[けみ]す)好[よ]し翁をして燃[とぼ]さしむるも亦可ならざる乎[や]
児[こ]曰く「硝灯[ランプ]の油は則[すなは]ち石油也[なり]瓦[怨-心+皿][かはらけ]の油は則[すなは]ち菜種[なたね]也[なり]器性[きせい]固[も]と異[こと]なれば油性も亦[また]異[こと]なれり翁[おう]強[し]ひて燃[と]ぼさんと欲すと雖[いへど]も▼得べけん乎[や]翁が心止む無[なく]して須[すべから]く之[これ]を油店[あぶらや]の娘に謀[はか]るべき也[なり]又児が瓦[怨-心+皿][かはらけ]の如きは則[すなは]ち未だ油を注がず故[ゆゑ]に油の貯[たくは]へ無し是れ又[また]燃[とぼ]すべからざる也[なり]且つ児[こ]甚[はなは]だ硝灯[ランプ]を恐る▼往々[おうおう]破裂して火事の憂[うれ]へ有り翁が硝灯[ランプ]若[も]し破裂せば亦[また]必ず▼訛事[かじ]を出さん歟[か]家事を失せん歟[か]将[は]た▼科事を生ぜん歟[か]到底災を免[まぬが]れざる也[なり]慎[つつし]まざるべけん[や]
翁驚て曰く「今の瓦[怨-心+皿][かはらけ]容易に燃[とぼ]すべからず油断大敵硝灯[ランプ]の敵すべきに非[あら]ざる也[なり]舌を捲[ま]いて去る
時[とき]既に▼午[ご]を過ぎ▼鉄棒[かなぼう]鏘々[ちりんちりん]夜[よ]を警[まは]る者[もの]呼ぶ火の用心