硝灯之怪談(ランプのかいだん)

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硝灯之怪談

諺曰
頭髪全禿而煩悩未止 蓋以春秋也 信哉言乎
皇城之北牛込某坊 有煩悩未止一禿翁
齢近耳順而健 欺壮士 唯無冠髪
焉蓋一物之[金+矍]鑠 亦可想也
常游神楽坂之妓窟 此地為山手芸妓之巣窟
而専洒権屡有醜行

[ことわざ]に曰[いは]頭髪全禿而[あたまはげても]煩悩未止[うはきはやまぬやまぬはずだよさきがない][けだ]春秋[しゅんじゅう]に乏しきを以[もっ]て也[なり]信なる哉[かな]言乎[げんや]皇城[こうじょう]の北、牛込[うしごめ]に煩悩未[いま]だ止まざるの一禿翁[いちとくおう]有り齢[よはひ]耳順[じじゅん]に近ふして[けん]壮士を欺[あざむ][ただ]冠を衝[つ]く髪無きのみ蓋[けだ]一物[いちぶつ][金+矍]鑠[かくしゃく]たるは亦[また]想ふべき也常に神楽坂[かぐらざか]妓窟[ぎくつ]に游[あそ]んで(此地[このち]山手[やまのて]芸妓[げいぎ]の巣窟為[な]り)洒権[しゅけん][もっぱら]にして屡[しばしば]醜行[しゅうこう]あり

▼頭髪全禿而煩悩未止…「頭髪全く禿して煩悩いまだ止まず」という文ですが、傍訓ではそれを「頭ハゲても浮気は止まぬ止まぬはずだよ先がない」と都々逸で表現しています。
▼蓋し…そうだと思うよ。
▼信なる哉言乎…まことのことばじゃな。
▼皇城…皇居。千代田のおしろ。
▼坊…町。「某坊」で「どこそこの町」の意味。
▼一禿翁…ひとりのはげたじじい。
▼耳順…六十歳。
▼健壮士を欺き…若いものには負けぬ元気さ。
▼一物…ハラに有り、またドコソコに在り。
▼[金+矍]鑠…元気もりもり。
▼妓窟…紳士の社交場。
▼芸妓…芸者。
▼洒権…酒の席の主導権。
妓呼曰硝灯公
但以禿頭之光不上レ硝灯之明 昔日謂之薬碗頭
翁酔則春情勃起 恰如樊[口+會]衝堅陣
勇進突前 殆不可抑止
梅児而強挑之 抱小桜而欲
縦横突衝 飽雖醜態
妓皆嫌厭左避右遁 或罵或嘲 無曽応者

[ぎ][よび]て硝灯公[ランプこう]と曰[い]ふ但[ただ]し禿頭[はげあたま]の光り硝灯[ランプ]の明[あかり]に異[こと]ならざるを以て也(昔日[せきじつ][これ]薬碗[やくわん]と謂ふ)翁[おう]酔へば則[すなは]春情[しゅんじょう]勃起[ぼっき][あたか]樊[口+會][はんかい]が堅陣[けんじん]を衝[つ]くが如く勇進突前[ゆうしんとつぜん][ほと]んど抑止すべからず梅児[ばいじ][とら]へて強ひて[これ]を挑み小桜[しょうおう]を抱[かか]へて之[これ]を折[おら]んと欲[ほっ]縦横突衝[じうおうとつしょう][あく]まで醜態を露[あら]はすと雖[いへど]も妓[ぎ][みな]嫌厭[いやがる]左に避け右に遁[のが]れ或[あるひ]は罵[ののし]り或は嘲[あざけ]り曽[かつ]て応ずる者無し

▼妓…芸者。
▼薬碗頭…やかんあたま。はげた頭のこと。
▼春情勃起…色っポイこころがもりもり。
▼樊[口+會]…漢の国の豪傑。臨武侯。主君の劉邦の危機を救った「鴻門の会」の話などでよく知られています。
▼勇進突前…ずんずん向かい進む。
▼梅児…梅のつぼみ。ようするにお梅さん。
▼捕ひて強へて…底本では「捕ヒテ強ヘテ」、送り仮名の入れ間違いであると思われます。
▼小桜…桜の花びら。ようするに小桜さん。
▼縦横突衝…ところかまわずぶち当たる。
妓見翁則 曰可厭硝灯而皆欲
翁雖家富 性甚吝而
尋常纏頭之外 不曽投一銭
徒手以欲活花
蓋所以転字之談不一レ調

[ぎ][おう]を見れば則[すなは]ち可厭[いやな]硝灯[らんぷ]と曰[いひ]て皆[みな][これ]を避[さけ]んと欲[ほっ]す翁[おう]家富むと雖[いへど][せい][はなは][りん]にして尋常の纏頭[てんとう]の外[ほか][かつ]て一銭を投ぜず徒手[としゅ]以て活花[かつか]を専らにせんと欲す蓋[けだ]転字[てんじ]の談[だん]調[ととの]ふ能[あたは]ざる所以[ゆえん]なり

▼性…性格。
▼吝…けち。しわんぼう。
▼纏頭…ご祝儀。俗に「はな」と呼ばれるもの。
▼徒手…てもちぶさた。相手がない。
▼活花…ひとのことばをしゃべる花。美女。
▼転字の談…自分の手もとに美女が転がり込んで来るというようなはなし。
且覩翁顔色皺波漲[桑+頁]色如渋紙
[鼻+九]涕溢鼻湿似梅雨
最可捧腹則開笑口而誤脱入歯者凡数回也
妓之嫌厭不亦宜

[か]つ翁が顔色を覩[み]るに皺波[しわ][桑+頁][ひたい]に漲[みな]ぎり色渋紙[しぶがみ]の如く[鼻+九]涕[みずはな]は鼻に溢[あふ]れて湿梅雨[ばいう]に似たり最も捧腹[ほうふく]すべきは則[すなは]笑口[しょうこう][ひらき]て入歯[いれば]を誤脱[はづす]は凡そ数回也[なり][ぎ]の嫌厭[けんえん]するも亦[また][むべ]ならざる乎[かな]

▼渋紙…かきしぶを塗った和紙。
▼梅雨…さみだれ。じとじと雨。
▼捧腹…わらってしまうよ。
▼笑口…笑ってるときの口。
翁殊眷恋一雛妓
屡迫而説之雖喰以[火+畏]薯炒豆
妓不敢聴 妓年未二七 旧暦
而頗有敏才 毎嘲弄硝灯而不曽見一レ

[おう][こと]一雛妓[いちすうぎ]眷恋[けんれん]し屡[しばしば][せまり]て之[これ]に説[と]き喰はしむるに[火+畏]薯[やきいも]炒豆[いりまめ]を以てすと雖[いへど]も妓[ぎ][あへ]て聴かず妓[ぎ]年未[いま]二七[にしち]に過ぎず(旧暦に因[よ]る)而[しか]して頗[すこぶ]敏才[びんさい]有り毎[つね]硝灯[らんぷ]を嘲弄して曽[かつ][おそ]るる所を見ず

▼一雛妓…ひとりのおしゃく。雛妓というのは、まだ一本立ちではない芸者のこと。
▼眷恋…懸想する。
▼二七…十四歳。
▼旧暦…太陰暦。少しごまかしてるということ。
▼敏才…とんち。
▼硝灯…ランプ公
▼畏るる所を見ず…こわいもの知らずだよ。
硝灯以本年本月某日其妓
俳優肖像之羽児板而又挑
妓探帯間而出懐鏡 従容曰
尊爺未曽対一レ鏡乎 試照此鏡看一看
爺頭滑然不一髪之痕
此頭顱 有此淫逸 非老耄則顛狂也
硝灯少有

硝灯[ランプ]本年本月某日を以て其の妓[ぎ]を招き俳優肖像[やくしゃにがほ]の羽児板[はごいた]を与へて又之[これ]に挑む妓[ぎ]帯間[たいかん]を探[さぐり]懐鏡[かいきょう]を出[い]だし従容[じゅうよう]として曰[いは]尊爺[そんや]未だ曽[かつ]て鏡に対せざる乎[や][ためし]に此の鏡に照らして看一看[かんいっかん]せよ爺[や]が頭は滑然[すべすべ]として一髪[いっぱつ]の痕を見ず此の頭顱[とうろ]を捧げ此の淫逸[いんいつ]有り老耄[ろうもう]に非[あらざ]れば則[すなは]顛狂[てんきゃう][なり]硝灯[ランプ]少しく顧[かへりみ]る所有れよ

▼其の妓…例の一雛妓。
▼俳優肖像の羽児板…歌舞伎役者の押絵などがつけられた羽子板。女のコたちのよろこぶ品のひとつでした。 ▼帯間…帯のなかから。
▼懐鏡…小さな手鏡。
▼従容…すこしもあわてず。
▼尊爺…おじさま。
▼看一看…じっくり見てご覧なさいな。
▼頭顱…あたま。
▼淫逸…このすけべ野郎。
▼老耄…もうろくする。
▼顛狂…ご乱心する。
焉翁莞爾笑曰
児諌雖切 翁未
児却有翁命之理
翁則固硝灯也 児則肥満而頗有膏沢
故欲児余膏而燃翁硝灯
且児則猶瓦[怨−心+皿]也 曽検之于混堂
好使翁燃亦可

[おう]莞爾[かんじ]として笑[わらひ]て曰く[こ][かん]して[せつ]なりと雖[いへど]も翁未だ従ふべからず児[こ][かへり]て従はざるべからざるの理有り翁は則[すなは]ち固[も]と硝灯[ランプ][なり]児は則ち肥満して頗[すこぶ]る膏沢[あぶらけが]有る故[ゆゑ]に児が余膏[よこう]を借りて翁が硝灯[ランプ]に燃[とぼ]さんと欲す且つ児は則ち猶[な]瓦[怨−心+皿][かはらけ][なり](曽[かつ]て之[これ]混堂[ゆや]で検[けみ]す)好[よ]し翁をして燃[とぼ]さしむるも亦可ならざる乎[や]

▼児…こども。一雛妓。
▼莞爾…ほほえんで。
▼諫して…意見する。
▼肥満…成長していって。
▼余膏…あぶら。
▼瓦[怨−心+皿]…かわらけ。灯火の油皿などに使われる土器。また、毛の生えそろっていない陰部のこと。
▼混堂…湯屋。おふろ屋。
児曰
硝灯之油則石炭也 瓦[怨−心+皿]油則菜種也
器性固異油性亦異矣
翁強雖燃 可得乎
翁心無止須謀之於油店娘
又如児瓦[怨−心+皿]則未
故無油之貯 是又不燃也
且児甚恐硝灯 往々破裂有火事之憂
翁硝灯若破裂 亦必出訛事歟 失家事
将生科事歟 到底不災也 可慎乎

[こ]曰く「硝灯[ランプ]の油は則[すなは]ち石油也[なり]瓦[怨−心+皿][かはらけ]の油は則[すなは]ち菜種[なたね][なり]器性[きせい][も]と異[こと]なれば油性も亦[また][こと]なれり翁[おう][し]ひて燃[と]ぼさんと欲すと雖[いへど]得べけん乎[や]翁が心止む無[なく]して須[すべから]く之[これ]を油店[あぶらや]の娘に謀[はか]るべき也[なり]又児が瓦[怨−心+皿][かはらけ]の如きは則[すなは]ち未だ油を注がず故[ゆゑ]に油の貯[たくは]へ無し是れ又[また][とぼ]すべからざる也[なり]且つ児[こ][はなは]だ硝灯[ランプ]を恐る往々[おうおう]破裂して火事の憂[うれ]へ有り翁が硝灯[ランプ][も]し破裂せば亦[また]必ず訛事[かじ]を出さん歟[か]家事を失せん歟[か][は]科事を生ぜん歟[か]到底災を免[まぬが]れざる也[なり][つつし]まざるべけん[や]

▼得べけん乎…得る事は出来ぬでしょう。
▼往々破裂…破裂はランプにともなう悪い印象の単語で、ランプが破裂を起こして火事の原因になった事はしばしばあったそうです。
▼訛事…妙なうわさ。
▼科事…罪科。
翁驚曰
今之瓦[怨−心+皿]容易不
油断大敵 非硝灯可一レ敵也
舌而去

翁驚て曰く「今の瓦[怨−心+皿][かはらけ]容易に燃[とぼ]すべからず油断大敵硝灯[ランプ]の敵すべきに非[あら]ざる也[なり]舌を捲[ま]いて去る

時既過午 鉄棒鏘々
夜者 呼火之用心

[とき]既に[ご]を過ぎ鉄棒[かなぼう]鏘々[ちりんちりん][よ]を警[まは]る者[もの]呼ぶ火の用心

▼午を過ぎ…日付変更線をこえた時刻。
▼鉄棒鏘々…錫杖をチャリチャリ音を立てながらついて行く夜まわりの定番の音。
校註●莱莉垣桜文(2010) こっとんきゃんでい