御飯の炊き方百種(ごはんのたきかたひゃくしゅ)

はしがき
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美味い米と不味い米

  良い米は美味しくて悪い米は不味いのは、異論の無いことであるが、同じ等級の中[うち]でも自[おのづ]から良否はあるものである。左様[さう]すると仮に内地の三等米を常食にする者が、其の三等米の中[うち]でも成るたけ良種の美味しい米を求め度[たい]のは人情である。外国米を併用する者なら、外国米の美味しいのを求め度[たい]のが人情である。同じ代価を払って不味い米を喰度[くいた]い人は無い筈[はず]であるから充分良否の撰択に注意を払わねばならぬ。

  同一の価格の米であって見れば、専門の者で無い以上は容易に良否の鑑定は難[かた]い。御飯に炊いて喰って見てもなかなか一寸[ちょっ]と炊きたての温かい中[うち]は解らぬ。斯[か]う云ふと何だか喰[くら]へども味[あじは]ひ知らずと云ふ事になって、馬鹿を云へ不味[まづい]米と美味しい米とが喰ひ競[くら]べが附[つか]ぬ筈[はず]はないと、さも飯の味を解[かい]するやうな事を云って居るが、実際に於[おい]て解らないのだから仕方ないのである。

  そこで米の良否を撰ぶには、何[ど]うすれば好[よ]いかと云ふ問題になるが、内地米にしても外国米にしても、御飯を炊く前になって、此の米は良いの悪いのと云っても、泥坊を見て縄を綯[な]と同じことで、最[も]う遅まきで仕様が無いから、米屋から米を買う時にまづその米を鑑定する必要がある。米の良否に因って同じ不味[まづい]外国米の中[うち]でも、ひどく不味いのと夫[そ]れほどでも無いのと別はあるものである。況[ま]して内地米となると米の良否で、全く美味[おいし]い不味[まずい]の大関係を有[も]って居るものである。

▼泥坊を見て縄を綯ふ…何かが起こってから、その対策にあたふたすること。

  米粒を一見して良いのと悪いのとを鑑定することは、一寸[ちょっ]と困難のやうであるが、多年の経験に由[よ]って百発百中するものである。即ち米粒に見る腹白[はらじろ]、または白玉[はくぎょく]の有無で大いに味の異なるもので、殊に内地米になると最も明らかに、其の色に由って良否を識別することが出来るし、また之[こ]れを外国米に移し試みても、決して誤ることが無いのである。腹白とは米粒の側部[そくぶ]にある白色不透明な部分を云ふのであって、白玉とは米粒の中心にある同様のものを云ふのであるが、米はこれ等[ら]の白色の部分なき全部半透明なものが、其の味の最も好[よ]いところの米である。外国米の細長い質の米でも矢張りこの半透明、または半透明に近いものが、御飯に炊きあげて確[たしか]に美味[おいし]いのである。次が白玉の少いもの即ち白い星のやうな玉がポツポツとあるもの、次が腹白の少ないものと成る順序を成して居る。

  学理上から研究して見たら、何等[なんら]かの理由があるだらうが、只[た]だ実験上から来た処の識別法であるから、何故[なにゆゑ]に左様[さう]した結果を齎[もたら]すかは解らないのである。全体米粒にこの白い色のところの出来るは、米粒を組織する澱粉粒[でんぷんりう]間に罅隙[すき]を存するからで、丁度氷は透明であるけれども雪塊[せっくわい]は白色であると云ふ推理に帰着するだらうと思ふ。内地米としては早稲種[わせだね]と小粒のものが全粒透明なのが通例であって、晩稲種[おくてだね]と大粒のものとになるに従ひ、白玉または腹白を見るのである。

  是れ等[ら]からして考へて見ると、白いところの多くある米粒は充実しないからで、何処[どこ]かフカフカした締りのないものと見做[みな]して好[よ]いのである。之れを如何[いか]に能[よ]く炊きあげて見たところで、舌に粗慥[そざう]の感覚を与へるのは確かであって、味の良くないのは全く此の理に基[もとづ]くより外[ほか]にあるまいと思はれる。凡[すべ]て物の味は唾液に溶解する成分によって、良否の区別が生じて来る。塩[しお][も]しくは砂糖のやうなものもあるが、又舌および歯に触れて衝動する器械的の作用に基因するものもある。米の味の一部は前者にあらずして必ず後者に属するのである。

  内地米の方面より見ても、白米の良否を鑑定するには先[ま]づ交[まじ]って居るもの、即ち挟雑物[けふざつぶつ]の有無を調べねばならぬ、第一小石の交じる物は宜しくない、一例をあげると精製してない朝鮮米を、同一性質だからと云って混合したものなどは必ず石が多い。其の次ぎが小米[こごめ]即ち欠け損じた粉の米の有無である。粉になった米の多いものは大抵味が悪いと極[きま]ってる。で、外国米も小米、即ち粉になった欠け米の多いものは、炊きあげて何となくジクジクするやうで、百中の九十九まで悪い質の米である。何[ど]う云ふ訳かと云ふに小米の沢山あるのは、欠け損じて粉と成ったもので、米粒が堅実でないからボロボロ欠けて粉に成るのであるから、其様[そんな]米にカギって例の白い部分が屹度[きっと]多い。之れがまづ堅実でない事を我れ我れの前に自白して居るので、其の質の粗悪なることを証拠立てて居るのである。猶[な]ほまた白いところが其様に無くして透明に近い部分が多いのに、小米の多いものは米粒の乾燥してゐないことを自[みづか]ら語って居るのであるが、味に於ては不味[まずい]ことは無いが、御飯に炊いても更に殖ゑることが無いものだ。

  夫[そ]れから米粒の形だが、之れは小粒か又は大粒の豊満なのが良いとしてある。中粒[ちうつぶ]のものは何[ど]うも宜しく無いのだ。何故ならば小粒種は主として早稲[わせ]で大粒種は中稲[なかて]、中粒種は晩稲[おくて]であるからである。内地米として彼[か]の鮨米[すしまい]などと云ふものは、殆[ほと]んど小粒であって味もまた美味[おいし]いが、海苔巻などにして小口切にした所を見ると、米粒の潰れて了[しま]ったのは論外とし、切口に光沢があって見るからに気持の好[よ]いものである。御飯にしてからが飯粒を横にしても縦にしても其の体[たい]を潰さないからである。以上のやうな訳で細長い形をして居る外国米でも同じことだ。

  要するに内地米にしても外国米にしても、其の半透明なのが良いので、不透明な白い色をして居るのは悪いのである。殖ゑる殖ゑないと云ふことは台所経済に大影響を及ぼす訳で、一言いへば二言目には米の値を云々[うんぬん]する今日では、最も研究すべき問題であるが、之れも亦[ま]た良種の米は殖ゑ、悪種の米は殖ゑない関係がある。殊に外国米に至っては最もこの関係が、透明不透明にあると云ふ。即ち良種の半透明なものは殖ゑて美味しく、不透明なものは殖ゑないで余計に不味[まづい]と云ふことである。

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校註●莱莉垣桜文(2010) こっとんきゃんでい