実業の栞(じつぎょうのしおり)青物商

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青物商

都下の青物市場は、多町[たちゃう]神田市場を初め、大根川岸[だいこがし]、本所[なか]の郷[がう]、同一ッ目、下谷金杉[かなすぎ][および]三輪[みのわ]千住本郷駒込等にありて、神田市場は多町、連雀町[れんじゃくちゃう]、佐柄木町[さえぎちゃう]、須田町[すだちゃう]、新石町[しんこくちゃう]の五ヶ所より成り、市場中屈指のものなり。問屋には青物問屋、果物問屋の区別あり、仲買にも問屋付属仲買と市場仲買とありて仲買の下に更に下仲買と云へるあり、之[これ]を一名油ッ取[とり]と称し、是等[これら]の手を経て小売商[こうりしゃう]或は流売商人[ながしうりしゃうにん]の手に品物は入[い]る規定[さだめ]なり。さて果物問屋にも、九州其他[そのた]各産地の柑橘類[かんきつるい]を荷請[にうけ]すると、夏果物問屋とて六郷[がう]神奈川等の梨[なし]或は流山[ながれやま]、房州産の桃[もも]等を荷受[にうけ]するとあり。青物問屋にも砂村[すなむら][および]埼玉地方の蔬菜[そさい]を受ると、川越[かはごえ]下総[しもふさ]等の甘藷[かんしょ]を専業すると、伊豆静岡地方の山葵[わさび]のみ扱ふと、長芋[ながいも]のみ取扱ふと、料理屋用の褄物[つまもの]のみ取扱ふとありて凡[すべ]て市場の規約により一種の荷の産地と取引するは、譬[たと]へば蜜柑[みかん]一色[ひといろ]にても、加入金千五百円を要す。故に資本は一定せざれど、他の商品と異なり、仕切金の早く入[い]るものなれば、少なくして五六千円の資本あればよろし。又果物問屋夏果物問屋を合せては、極[ごく]の小問屋[こどんや]なりとも三千円余は要るべし。

▼都下…東京市内。
▼大根川岸…大根河岸。「大根」を「だいこ」と発音するのが江戸の特徴。
▼紀…紀伊の国。
▼泉…和泉の国。
▼蔬菜…菜っ葉などの野菜。
▼甘藷…さつまいも。
▼褄物…お料理のお皿の上に、料理と一緒にのせる飾りもの。
▼一色…一品種。
▲取引と利益

荷主との取引は多く現金にして稀[まれ]には荷為換[にかはせ]もあり、荷主が朝持来[もちきた]りし品の不捌[ふさば]け捌[さば]けるの区別なく当日の相場にて速[すみやか]に仕切金を渡すが例にて、利益は一割位。惣じて青物果物に限らず、当り年には品嵩[かさ]むより損多く、不作の時が利あるものなり。但し褄物問屋[つまものどんや]は料理向の営業とて、一割以上の利益あらん。

▼当り年…豊作の年。
▲仲買

は問屋に信用あれば無一物にて売買するを得て、仕払も月末払なれど、仲間にては現金取引なり。利益も五分が普通ながら、前述の如く問屋付属、市場仲買、油ッ取の別によりて利益にも小異あるは論なし。さて問屋へは仲買の外[ほか]に鎗[やり][すなは]ち直段[ねだん]に入[い]るる事出来ざれど、糴[せり]となれば小売商も立会[たちあひ]に入る事なきに非ず、但し其[その]場合多くは仲買の資格ある者のみなり。


▲小売商

は仲買の手を経て、青物果物等市場より仕入るる者なるが、流売[ながしうり]すると、荷車にて花主廻[とくゐまは]なすと、店を持ちて素人へ販売すると、又和洋の菓物[くわぶつ]をのみ商ふものと、褄物をのみ売るとの別によりて、資本に差異あれど、先[ま]づ和洋の菓物を売る小店にても、百五十円以上二百円は要るべく、褄物屋(魚川岸[うをがし]等へ出る者)は二三百円を要し、水菓子飾半台[かざりはんだい]にのせ、剥庖丁[むきばうちゃう]より天秤棒[まで]も揃へれば十円位荷車にて挽行[ひきゆ]く行商は、下等にて十五円以上二三十円、流売[ながしうり]は多く市場の明篭[あきかご]を使用すれば、三十銭以上一円迄にて荷拵[にごしら]へ出来、仕入金も少資本にて営業に出られ、又小売店は五十円にても百円にても際限はなし。

▼花主廻り…お得意さまの家をまわって、販売してゆく方式。むかしの棒手振さん達の商法。
▼菓物…くだもの。
▼水菓子…くだもの。
▼飾半台…商品を盛り付けておくための台。
▼天秤棒…商品を運ぶための荷ない棒。
▲利益と仕入時間

小売にて惣菜物[そうざいもの]香の物等を合[がっ]して、平均一割五分以上二割の利あり、流しの水菓子売は三割、花主[とくい]を車にて廻るものは二割内外、褄物屋は三割以上四割なれど。多くは通帳[かよひちゃう]の月末払とて、内金払[うちきんばらひ]が十中の八九なれば、結局多分の儲[まうけ]はなし。さて市場への買出[かひだし]は上等の花主[とくい]ある八百屋にて、午前六時頃より来[きた]り八時頃には引上[ひきあぐ]るを例とし、以下は十一時頃迄も市場を歩き居[を]るものなり。又暖簾師[のれんし]と云ふ詐偽的[いかさま]の商人は、市場の難物(ナヤミ物)を買ひ山の手辺へ売りに行く故、十二時半頃迄も市場に烏鷺付[うろつ]く。

▼惣菜物…おそうざい。
▼香の物…おつけもの。
▼市場の難物…市場で売れゆきの悪いもの。
▲取引

は凡[すべ]て現金なれど、数年市場へ出入し信用ある八百屋へは貸売[かしうり]なり。されど其[その]代金を仕払ざる時は市場に掲出して取引せざる規定にて、昔は十円なり五円なりの金を仕払はぬ商人は、凡[すべ]て袋叩[ふくろたたき]同様にし帳消しにせし蛮風[ばんふう]ありき。

僧は叩く八百屋の門や今日の月 蓼太

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▼蛮風…ちょっと野蛮な風習。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい