実業の栞(じつぎょうのしおり)漬物商

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漬物商

[この]商人は都下至る処にありて、最も旧家と称するは神田連雀町[けんじゃくちゃう]小田原屋なり。大なる商人に至りては数千円以上の資本を要すれど、小なるものは数百円にても出来、商店にては大根なり白瓜[しろうり]なりを何[いづ]れも荷主と特約して購求すれど、小なる店は多町[たちゃう]の青物市場より買出すを常とす。総じて上等品を販売する店にては、奈良漬用の瓜なども、本場と称する下総佐原町にて下漬[したづけ]をさせ、更に其[その]瓜を粕漬[かすづけ]とし、又梅干も紀州田辺[たなべ]産の本場を使用するより、直段[ねだん]も従って高くなる割なれど、下等店は王子、田端[たばた]等より産する瓜を漬けて販売するより、同じ大[おほき]さの粕漬にても安価なり。

▼都下…東京市内。
▲売口多き品

は沢庵[たくあん]菜漬[なづけ]等にして、其[その]種類夥[おびただ]しければ一々記し難く、一口に漬物屋と云ひても、当時は瓦詰[びんづめ]缶詰[くわんづめ]物を合[あは]せ売る事となり、是等[これら]は夏季に旅行用として売口悪[あし]からず、浅漬大根は夷講[ゑびすこう]則ちべッタラ市[いち]の始まる時より売出せど上等物は其頃[そのころ]にはなく、何[いづ]れも安物のみなり。

▼瓦詰…壜詰。「びん」の字に「瓦」を使っている点に注意。
▼夷講…江戸では10月20日に行なわれていた行事。えびす様をまつって家族やお客さんと一緒に料理を食べたりします。
▼べッタラ市…べったら漬けを売る市。10月19日、大伝馬町で行なわれます。
▲利益と取引

荷主との取引は現金にて、漬物を地方に荷送するも又現金が規定なれど、中には延取引[のべとりひき]もあり。利益は漬物によりて異なるは云ふまでもなけれど、平均一割余は確[たしか]なりとす。但し一本売は利益も従って増加する事と知るべし。又市中を流し売[うり]する小商人[こあきうど]は、問屋より荷物を借入[かりい]るるものなるが、問屋にその損料を出さぬ替[かは]り、漬物は其[その]店より購入する義務ありとぞ。


▲上物安物の品質

例へば味噌漬大根[みそづけだいこん]にしても上物は生大根より味噌に下[おろ]して漬込めど、安物は沢庵の変味せしを味噌漬となす定めにて、奈良漬も上物は一樽に廿本位より漬[つけ]ず、瓜より粕を多くし謂はば粕の中に瓜を埋[うづ]むる体裁ながら、安物は粕より瓜が多き故、風味の相違は非常なり。粕も直し酒の粕を用ふれば、上等の奈良漬を製し得れど近来直しの醸造方僅少となり、其[その]粕は品も少なく高価なるより、已[や]むなく味淋粕[みりんかす]酒粕[さけかす]等を用ひ居[を]れど、安物は下等の酒粕へ、安味淋[やすみりん]安酒[やすざけ]などを散布して漬けるより、安物程割合よきものなり。

▼変味…味のすこし悪くなってしまったもの。
▼直し酒…質の悪くなって来てしまったお酒に新酒を少し混ぜたり火にかけたりして風味を戻したもの。なおし。
▼味淋粕…みりんを醸造するときに出来る粕。
▲漬物は自製

が多く、これは職人といふが無き故、主人が手加減にて塩を塩梅[あんばい]し漬[つけ]るなり。総じて菜漬[なづけ]沢庵[たくあん]とも、嵩[かさ]のあるが体裁よければ[おし]は強くせず、一時の見てくれを作りて販売す。其[その]漬方にも各自秘密あり、入梅頃湿気の為[ため][かび]を生ずる物多ければ、凡[すべ]て此頃[このころ]が困難なるものなり。

▼押…漬物をつける時のおもし。あまりペッタンコにならないように調整していたようです。
▼入梅頃…梅雨のころ。
▲貧民窟の漬物屋

は沢庵に限らず、何品にても五厘位の直段[ねだん]を付て、幾切[いくきれ]かを盛りて売り、少しく変味せし物なりとも、嵩[かさ]さへ多ければ買手あり儲も普通の小売より多く、中には兵営の残物[のこりもの]なる沢庵を集めて売るもあり、斯[かか]る商人は五割位の利ありと知るべく、猶[なほ][この]商売は季節によりて種々の漬物あるより、左程閑散を極むる時期なけれど、夏季胡瓜[きうり]茄子[なす]等の出盛[でさか]る時は、多少影響を受くるものなり。

水飯に浅漬ゆかし二日酔 樗良

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▼兵営…軍隊の営所。ここから残物をもらって来るとはつまり「軍隊払い下げ」ということ。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい