都下団扇屋の▼淵叢[えんさう]は日本橋区堀江町にして里俗[りぞく]此処[ここ]を団扇河岸[うちはがし]とも云ひ、問屋組合に加盟せるは廿軒あり、元来此商売には仲買といふものなく、職工が其[その]片手間に小売するを常とす。さて問屋の中[うち]には▼地方行[ちほうゆき]外国輸出の安物及び上等品を取扱ふ別ありて、堀江町にては重[おも]に安物を旨とし、日本橋萬町のはい原、通四丁目の金花堂之[これ]に次ぎ、浅草駒方の保寿堂日本橋小伝馬町の幸山堂等は上等物を扱ふ店なり
は問屋と呼ばるるには、少なくとも数千金を要せど、利益はその割になく、大約二割位に止[とど]まるといふ。
は地方によりて少しの差あれど、多くは荷着[にちゃく]の上[うへ]仕払[しはらひ]を受るか、▼歳晩[さいばん]に至りて地方へ店員を▼派[は]して集金するかの二途にて、店員派出は大方[おほかた]暮[くれ]に団扇の代金を取りながら、翌年の▼略暦[りゃくれき]を売込み、春に入りて件[くだん]の略暦の代を取りながら団扇の註文を受くる規定となり居れり。注文の時期は地方にて四月一杯、市中のは五月一杯にて、それより遅き時は▼盆配[ぼんくばり]もしくは▼暑中配[しょちうくばり]の間に合はず。
は六七の二ヶ月にして此の間[あひだ]職工は何[いづ]れも徹夜して業に従ふを例とし、最も閑散なるは八月より十月に至る三ヶ月にして、十一月となれば徐々[そろそろ]翌年の安物を張り始むるなり。
は其[その]仕事によりて相違あれど、▼該して婦女の内職にて、▼張手[はりて]の巧者なる女となれば一ヶ月平均八九円位なり。七月に入[い]れば親方より仕事を急ぎ、何程かの▼増金[ましきん]をも出せば、其頃には右以上の賃金を得[う]べし。仕上げ或[あるひ]は▼廻りを断つ等の仕事は、問屋より引受たる親方がなすが多ければ、職工の▼手間の刎[はね]とを合せて親方の収益は第一となる、▼竹柄[たけえ]を切り出す職工は▼男工[だんこう]にて、一日六七十銭の手間を取る由[よし]。
といふは総じて団扇を製造する職工の片手間にして、問屋の誂物[あつらへもの]又は自身が註文を取りて造るものなり。陳列品は二百本もあれば店に満遍なく並べられ、一本売は大凡[おほよそ]三割の利あり、資本と云っても三四円の品を店頭に並[ならぶ]れば充分なりとぞ。さて問屋小売屋を問はず、残品は捨値として地方に売れば、之[これ]を当てに仕入をする地方商人ありて少しも廃[すた]りはなし。職工も時期過[すぐ]れば略暦[りゃくれき]を製造するもあり、或[あるひ]は竹わ産地より仕入[しいれ]て、翌年の用に供する為[ため]之[これ]を編みて喰続[くひつづ]きするものもあり。
は非常なるものにて、一本の製造には安物上物の別なく、十七八遍の手数[てすう]懸[かか]るものなり。さて紙の種類は上等品に奉書[ほうしょ]大坂政[おほさかまさ]藁入政[わらいりまさ]東京[とうけい]出来の地政[ぢまさ]本政[ほんまさ]等あり、下等品には藁紙[わらがみ]を用ふ。柄竹[えだけ]は▼房州奈古[なこ]出の女竹が本場にて、次は上総出、次は三島辺より出づるものを用ふれど安物はこれより以下のものと知るべし。骨の組方にも二本組[にほんぐみ]平組[ひらぐみ]雀編[すずめあみ]蛤編[はまぐりあみ]等ありて、平組といふは安物なり、又[また]糸出しとて萌黄[もえぎ]赤等の糸にて窓の処[ところ]を飾るは上等品ならでは為[な]さず。
つがもない狂歌やられし団扇哉 依貞