実業の栞(じつぎょうのしおり)洋紙商

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洋紙商

[この]営業は極[きは]めて近き頃発達したるものにて、其[その]かみは専[もっぱ]ら西洋より輸入せられたる品を売捌[うりさば]くを主とせしが、現時は諸所に製紙所の創立を見るありて、和製の物日に増し製造せらるると共に、洋紙商も漸[やうや]く之[これ]を引受けて顧客[こかく]を求むる事となりしが、何がさて外国製の物よりは大[おほい]価格に廉[れん]なる処あるより売行[うれゆき]至ってよく、今は和製の需要外国製の上越すに至りぬ。さて其[その]製紙所の多くは何[いづ]れも大資本を有せる会社組織にして、有名なるは有恒社[いうこうしゃ]王子製紙会社富士製紙会社千寿製紙会社四日市製紙会社東京板紙会社等にして、元よりその規模に大小の別こそあれ、何[いづ]れも盛況を極[きは]め居れり。

▼和製の物…日本で製造された西洋紙。
▼価格に廉なる処…安い、廉価。
▲資本と利益

和紙商がなかなかの資本を要すると同じく、此[この]洋紙商も又少額の金子[きんす]を以[もっ]ては開業する事困難にして、且[かつ]その販売方に至っては、和紙の如く十銭二十銭の商売と云ふ事絶[たえ]てなく、小売と云っても一纏[ひとまとめ]にしたる物のみなれば、僅[わづか]に五百や六百円の資本を以[もっ]ては迚[とて]も営業なり難きものなり。されば此[この]商人は市中にいくらも軒を並ぶると云ふ状況を呈せず、極[ごく]の小売即[すなは]罫紙[けいし]や何かの十銭二十銭の物を売る事は、全[まっ]たく和紙商の兼業に属し、純然たる洋紙商は小売とても殆[ほと]んど問屋同様のものと見るべきなり。市中に聞えし店は十軒店[けんだな]中井[なかゐ]堀留[ほりとめ]服部[はっとり]京橋の柏原[かしはばら]銀坐の細川[ほそかは]新橋の杉井[すぎゐ]日本橋の大倉[おほくら]福岡[ふくおか]小津[おつ]神田の博進社[はくしんしゃ]等なるが、其[その]資本には万以上の巨額を運用して、盛[さかん]に営業を為[な]し居るなり。其他[そのた]の重[おも]なる店と云へば上記諸製紙所自[みづか]らの販売部なるを見ても、如何[いか]に其[そ]の資金に巨額を要するかを知るに足るべし、さて其[そ]の利益は通じて五分乃至[ないし]一割の見当[けんたう]なりといふ。

▼罫紙…あらかじめ文字列のための罫線が刷られている西洋紙。
▲得意先

上来[じゃうらい][のべ]たる如く、洋紙の販売方は十銭二十銭といふ小売ならで、少くとも一時に三四百円と纏[まとま]りたる商売を為[な]すものなるが、さらば其[その]得意先は如何[いか]なる家[ところ]にあるべきかと云ふに、元より多額に之[これ]を使用する営業者の需要に応ずる事[こと]論なし、その重[おも]なるは書籍出版業新聞社及び各種の印刷業者にて、就中[なかんづく]新聞社の如きは毎日の事なれば、極めて大なる得意にして、之[これ]が取引を各製紙会社直接の手よりなすもあり。


▲繁忙時期

何時[いつ]とてさしたる変りなけれど、殊[こと]に多忙なるは秋口よりかけて春季に至る間なり。こは毎年書籍出版業者の書入時[かきいれどき]なれば、全くそれに連[つれ]る事にて、新聞社印刷業者の如きは年中何時[いつ]が何時[いつ]とて変りなきものなれども、春季は殊[こと]に景気よければ、自然用紙の使途[しと]多く、出版業者と加へて此[この]商売は益[ますま]す繁昌を覚ゆるなり。

▼書入時…もうけどき。
▼用紙…印刷用紙。あるいは洋紙の誤記か。
▲洋紙の種類

は極[きは]めて多けれども、大別すれば和製に上等印刷紙普通印刷紙ボール等あり、舶来物に帳簿紙[ちゃうぼし]上等印刷紙普通印刷紙及び雑誌製本用クロース等ありて、彼[か]の板紙[いたがみ]は主として板紙会社の製造に係るものなり。

初冬や洋紙扱ふ指さはり 不易

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▼ボール…ボール紙。
▼舶来物…輸入品。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい