実業の栞(じつぎょうのしおり)薬種商

凡例
目次

もどる

薬種商

[この]商業は其[その]種類数多[あまた]あり、例せば洋薬専門店、和漢薬専門店の所謂[いはゆる]生薬屋[きぐすりや]工業薬を専門になす者等ありて、問屋製剤本舗請売小売商等一括すれば市内殆[ほと]んど千有余店の多きに達せり。さて問屋の資本は元より際限なきものなれども五千円以上一万円もあれば何[ど]うやら小問屋として立行かるべく利益は洋薬と和漢薬とによりて多少の差異あれども、平均一割内外ならん、製剤本舗に至りては約二割は慥[たしか]にて、小売は三割余に上[のぼ]るを常とす。

▼工業薬…作業場や工場などで使われる化学薬品などを販売している店。
▼製剤本舗…くすりを自家で製造販売している商店。
▲工業用薬舗

これは資本千円もあれば充分にて品の捌方至って宜ければ、決して資本の固定せぬ処[ところ]、他の店に比べて大[おほい]に割合よろし。薬品の種類もさして多からぬが上に、品質の善悪にもさのみ思慮を要せざる故[ゆゑ]、素人[しろうと]にて出来得[う]る事容易なり。


▲製剤本舗

と云ふは所謂[いはゆる]家伝薬[かでんやく][もし]くは医士が他年患者に用ひて効顕[かうげん]ある処方を譲り受け之[これ]を製剤して販売するものなりされど一剤を得て其[その]効能弘く世人[せじん]に熟知さる迄に至らしむるは容易の業[わざ]ならず。近時は新聞紙に広告の便あれば、成[なる]べく新意匠を出[いだ]て紙上へ広告し、或[あるひ]は種々の処へ看板を建て、百方人の耳目[じもく]に触れしむる手段を取るより、広告のみの資本が殆[ほと]んど全資本の六七分は掛る訳ながら、一旦世人に何散[なにさん]何丸[なにぐわん]と記憶さるるに至らば、よしや千円の資本の内七百円を之[これ]に投ずとも、千円丈[だけ]の利益を占むるは容易の事なりとす。昔は新聞紙の発行なければ、売薬を弘むるには種々の手段を取り、最も窮策に至りては店員をして註文書[ちうもんがき]を殊更[ことさら]市街に遺失させ、通行人が拾ひ取りて其[その]店に届くるあれば、何程かの報酬を与ふる等の手段を考へ、斯[かく]て売弘[うりひろめ]を務めたりといふ。

▼家伝薬…長い間、その製法が口伝などで伝えられてきたくすり。富山の「反魂丹」浅間の「万金丹」対馬の「牛肉丸」吉野の「陀羅尼助」などは古くから知られたもの。
▼効顕…すばらしい効き目。
▼一剤…くすり。
▼近時…このごろ。
▼遺失させ…落っことさせて。
▲最も利益ある品

は昔の四つ目屋などにて売りたる品にて、多くは売薬部外のものなり。買手も人の目を避け郵便等にて註文し来[きた]るより、よしや一円の処[ところ]へ十銭位の品を送りても有無を云[いは]ず。此[この]薬こそ旧来の諺[ことわざ]にある如く、九層倍の利あるものならめ。

▼四つ目屋…エッチなくすりや道具などを売っていた店。
▼郵便…通信販売。
▼九層倍…くすり九層倍。
▲売薬の原価

例へば十銭の価[あたひ]を付して販売する薬は、規定一割の印税を貼付[てうふ]し、差引き九銭の物ながら、最も割に合はぬ薬にても、原価五銭以上投ぜしはなく大抵四銭止りなり。甚[はなはだ]しきは二三銭にて装飾迄調[ととの]へらるるもあって、請売[うけうり]する者が六掛なり五掛なりにて受け、之[これ]を小売に六掛なり七掛にて卸し、小売は十銭の定価にて売るより小売の多くは請売より求むるを常とし、直接製剤本舗に仕入には行かず、之[これ]は数を多く求めざれば、請売より仕入ると相違なく、請売は、一纏めに何丸を何百袋と仕入するより、常に何掛と定めて引取り、小売へは本舗の卸値[おろしね]同様に売る故[ゆゑ]なり

▼装飾…くすりの包装など。
▲売口よき品

漢薬なれば竜脳[りうなう]、大黄[だいわう]、洋薬なればクミチンキ工業用なれば苛性曹達[かせいそうだ]等、普[あまね]く世人が使用法より功能を知れる薬が捌けるなり。惣じて売薬は盛衰の時期なく、世の景気不景気に拘[かか]はらず売行きあれど、先[ま]づ夏季が盛況にして冬季は不況なり。されど[ゆず]が黄[きいろ]くなれば薬屋が青くなると云[いひ]し諺[ことわざ]程に閑散のものならず。

▼柚が黄くなれば薬屋が青くなる…くだものを多く摂ることで病気につよくなる、という意味の俚言で、「りんごが赤くなると医者が青くなる」などと同様のもの。
▲売揚高

市中有数の小売店にて、一日十円余の売揚あるは数軒にして、先[ま]づ六七円位が上の部なり。下等に至りては化粧品香料等を加へて一二円位売れるに過[すぎ]ず。さて此[この]商売の一徳は、品物の腐敗などせぬ事と、客に直切[ねぎ]られざる事の二つなり。

虫干や大道せまき薬種店 伴好

つぎへ

▼上の部…上等の部類。
▼一徳…いいところ。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい