実業の栞(じつぎょうのしおり)雛武者人形及び幟商

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雛武者人形及び幟商

[ひな]及び武者人形を商ふ本場は、日本橋十軒店[じゅっけんだな]浅草茅町なる事、何人[なにびと]も知る処[ところ]にして、毎年二月よりは雛市、四月よりは五月幟[のぼり]、武者人形の市を開くを例とす。

▼雛…ひな人形。桃のお節句のかざりもの。
▼武者人形…五月人形。端午のお節句のかざりもの。
▼五月幟…のぼり鯉や鍾馗、家紋などを染めたのぼり等。端午のお節句のかざりもの。
▲資本と店賃

二三間[げん]々口[まぐち]位にて、店頭[みせさき]に体裁よく上等物を飾付くるには、資本数千円を要す。十軒店と茅町とは品物に相違ありて、茅町物は多く田舎向(光月等は別)を製するより、資本にも異なる点あり、茅町には平日際物[きはもの]ならざる商法をなし、節句間際に問屋の暖簾[のれん]を掛けて、何月の出店[でみせ]と称して営業する者多く、十軒店とても間際に及び表店[おもてだな]を借りて営業するとせば、上等店の賃金間口三間[けん]奥行二間[けん]にて一箇月六十円以上百円余、次は三十円以上五六十円の相場にて、毎年の出店者は予[かね]て其[その]商店と約束しあれば、突然の借用は決して出来ず。


▲出店の期間

居付商人[ゐつきしゃうにん]臨時商人[りんじしゃうにん]とも、雛市の開始は二月にて、旧暦の節句まで約二ヶ月間に及び五月幟は四月より矢張[やはり]旧節句に至るまで開店す。旧節句までの開店は全く地方の需[もとめ]に応ぜん為[た]めなり。さて其[その]売盛[うれさか]る時期は雛[ひな]五月幟とも節句当日より十日前を[さい]とす。

▼旧暦…太陰暦。
▼旧節句…太陰暦にあわせておこなうお節句。
▼最…最高潮。
▲売手

の多くは平常紙屑買[かみくずかひ]古道具屋等なるが其[その]時季になれば例年定まりし店へ売手に行くなり。給料は商売上の甲乙により大なる相違あり。中には売揚高[うりあげだか]より分合[ぶあひ]を以[もっ]て給料とするもあれば、最も懸引[かけひき]に通ぜる者を要し、其[その]巧拙によりて売揚に甚[いた]く影響するより、仮令[たとへ]買手が知人なりとも少しも遠慮せず掛直[かけね]するを常とす。

▼紙屑買…家々の紙屑を買い取って行く商人。
▼商売上の甲乙…営業成績。
▼掛直…価格を一定量以上高めに決めといてものを売ること。
▲人形師の区別

同じ十軒店の人形屋にても、京都風と東京風とありて、雛人形は京都風を尊[たっと]び、其昔[そのむかし]徳川幕府隆盛の頃には、御本丸御用を勤むる為[ため]本石町の横に雛屋と称する人形師の出張所ありて、衣裳小道具等も皆[みな]京地製を用ひたる程にて永徳斎[えいとくさい]の先代は其[その]雛屋の職工なりしかば、今も同人の製は京都風にて、舟月等は東京風の人形師なり。


▲売口よき人形

は雛なれば内裏[だいり]及び五人囃子[ごにんばやし]等、五月人形は日清戦役[にっしんせんえき]鍾馗[しゃうき]等売口[うれくち][あ]しく、神武天皇[じんむてんわう]神功皇后[じんこうくわうごう]等売口よく殊[こと]に歴史物なる楠公訣別[なんこうけつべつ]等売口よし。

▼内裏…おだいりさま。
▼鍾馗…邪鬼たちをはらうとされている人物で、玄宗皇帝の夢の中に出て来た鬼を退治した故事から。日清戦争後に人気が下落したのは日本の説話が好まれた事から。
▼神武天皇…大和朝廷のはじめの天皇。天津日高日子波限建鵜草葺不合の息子。五月幟には金鵄をしたがえている神武東征のおりの姿などが描かれていました。
▼神功皇后…応神天皇の母。三韓征伐のときの鎧姿などが描かれていました。
▼楠公訣別…楠木正成が桜井の駅で息子の楠木正行と別れる場面を描いたもの。
▲利益

際物[きはもの]の事とて、普通の商品より利益あるは元よりなれど、斯[かか]る物は殊[こと]に其年[そのとし]の景気不景気により、売口の善悪に大関係を来[きた]すなり。されば不況と想像して仕入を控へし時、若[も]し売口よくば尻刎[しりはね]して思はぬ 利を得、又盛況と考へて沢山仕込し時[とき]売れざれば非常なる大損を招[まね]ぐべく、根が際物の事とて、詳細は述べ難きも、約五割以上の益ありと見ば大差なかるべし。


▲外箱と紫宸殿

維新[ぜん]外箱[そとばこ]は埼玉県越ヶ谷より積出[つみいだ]せしが、今は諸方にて製作する事となり、越ヶ谷よりのは旧の如くなれど其数[そのかず]は減少せり。又紫宸殿[ししんでん]は最も売口悪[あ]しく、東京の製作は稀[まれ]にて多くは名古屋出来なり(誂物[あつらへもの]は別)総じて節句中に一箇売れるか売れぬ位なれば多くは商人が店頭[みせさき]の飾[かざり]と知るべし。

▼維新前…明治維新。1868年。
▲幟と鯉

[のぼり]座敷幟と外幟ありて、座敷幟は中等の処[ところ]売口よく、外幟は至って少なく、尤[もっと]もよきは[こひ]緋鯉[ひごひ]の売口にて、利益は人形と大同小異なり。

雛祭人形天皇の御宇かとよ 桃青

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▼座敷幟…五月人形や鎧兜などに並べて家の中に飾るのぼり。
▼鯉緋鯉…鯉のぼり、緋鯉のぼり。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい