実業の栞(じつぎょうのしおり)刷毛商

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刷毛商

[この]業は市中に二百四十軒余ありて、平刷毛[ひらはけ]は平物師[ひらものし]と云ひ、漆刷毛[うるしはけ]は製造人少数にて、市内僅[わづか]に四軒あるのみ、漆刷毛の元祖は、神田区久右衛門町十番地泉清吉[いづみせいきち]にて、同人まで七代此業に従事し他の二軒は何[いづ]れも同人方の分家或は弟子なり。又京都五条上る今井庄兵衛[いまゐしゃうべゑ]方にて此の刷毛を製すれど、同じく泉の祖先より伝習したる者なりとか。

▼漆刷毛…うるし塗りの作業につかうための刷毛。
▲刷毛の種類

平刷毛[ひらはけ]は張物屋[はりものや]、紺屋[こんや]、経師屋[きゃうじや]が使用し、俗に八寸刷毛と並八寸と大八寸とあり。更紗屋[さらさや]は牡丹刷毛[ぼたんはけ]俗に丸刷毛[まるはけ]を用ひ居れるが、平刷毛屋は是等[これら]の品と、理髪店用のブラシ糊刷毛[のりはけ]等を製するなり、漆刷毛屋は塗師屋又は海軍、鉄道局等にて用ふるペンキ塗[ぬり]のブラシわ製す。[この]刷毛は従来舶来製なりしも、今は我国にて製するに至れり。

▼此刷毛…ペンキのブラシ。
▲原料

の毛は重[お]もに鹿[しか]の毛にて、内地産を本鹿毛[ほんかげ]と云ひ、朝鮮産を唐鹿毛[からかげ]と云ふ。本鹿毛は上等物用、唐鹿毛は並物用なり。さて鹿は四季に脱毛するものにて、夏の毛を夏毛と云ひ、赤色にして最上なり、次は秋毛とて秋より冬季の毛なり、其[その]色は鼠色[ねづみいろ]にて長く、之[これ]は経師屋更紗屋用の刷毛に用ゆ。又豚[ぶた]及び馬[うま]の毛を用ひ、馬毛[うまのけ]英露、豚[ぶた]は内地産を宜しとし、凡[すべ]てブラシ用は馬毛[うまのけ]なり漆刷毛は婦人の生毛[いきげ]を用ひ。中にも俗に赤毛と称する漁師の婦女が生毛は、汐風[しほかぜ]に晒[さら]されて油気[あぶらけ]なく、自然と其の発育を妨[さまた]げられ成育遅きものなれば、之[これ]を漆刷毛原料の最上とし、梨子地[なしぢ]、蒔絵物[まきゑもの]、能代塗[のしろぬり]、臘色塗[ろいろぬり]用の刷毛に用ふ。外[ほか]に地毛[ぢげ]と云ひ何人[なんびと]の毛も用ふれど、之[これ]は下塗[したぬり]用の原料よりならず。原価も極めて安直[やすね]なりと。又木材は平刷毛の方は水に強きを肝要となすより、紀州武見[たけみ]産の場違[ばちがひ]なる檜[ひのき]を用ひ、漆刷毛は毛を中に入[いれ]て廻りを箱とし、使用毎に廻りの木を切り行くものなれば、尾州産の俗に本木[ほんぼく]と称する檜[ひのき]を用ふるなり。

▼英露…イングランドとロシア。
▼何人の毛…いろんなひとの毛。
▼紀州…紀伊の国。
▼尾州…尾張の国。
▲漆刷毛の直段

平刷毛は左程直段[ねだん]に高下なけれど、漆刷毛を一と通り取揃へるには四十八通りありて、一個三円五十銭以下十銭位迄なれば、塗師屋となりても三十余円は費[つひや]す可[べ]し。


▲資本と利益

此の業は製造販売が大部分を占め卸[おろし]と云ふは市中に二三軒よりなし。小売は荒物屋[あらものや]漆屋[うるしや]にても為[な]し居れり。製造販売と卸とを兼ぬるには、少なくも五六百円以上千円以下の資本ならでは出来ず、製造販売と小売とをなすとすれば、百円か二百円もあれば二三人の職工は抱[かか]へらるるもの也。利益は製造卸を兼ぬる時は、一割より一割五分位、製造と小売とをなせば三四割はあれど一日に多数は出来ざるより、平均二割内外なりと知るべし。


▲漆刷毛の得意先

は漆器産地と聞[きこ]えたる静岡、会津、日光、美濃、神戸等にて、市内にては日本橋通り黒江屋[くろえや]、室町の木屋[きや]、南伝馬町の石見[いはみ]、芝[しば]柴井町の高橋商店[たかはししゃうてん]等重[おも]なる処なりとぞ。

小春日[こはるび]や御隠居さまの刷毛仕事 喬松

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校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい