実業の栞(じつぎょうのしおり)剪花売

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剪花売

花売の起源は遠く寛永年間の昔にあり、西新井[にしあらゐ]堀切[ほりきり]等の田舎人が、無雑作[むざうさ]なる竹篭製の台輪[だいわ]を担ぎて、市中を売初[うりはじめ]たるが嚆矢[かうし]にて、今以[いまもっ]て花売は同地付近を以て本場とす。

▼嚆矢…はじめて。
▲資本と仕入

流し売をする中等の部にて、荷車より花鋏[はなばさみ]、花桶[はなをけ]悉皆[しっかい]を新[あらた]に購求するとすれば、少なくも三四十円の費用を要し、以下五六円の資本にても事足るべく、其[その]仕入元は下等にて五十銭位中等一円上等一円五六十銭位、仕入て台輪に入れ流し売の出来る車となりては下等にて一円五十銭以上、中等にて三円位、上等に至っては五六円、極上等の品となれば十円余の仕入金を要す。さて仕入先にて有名なるは、下谷車坂[したやくるまざか]の花太[はなた]本所中の郷竹町花仙[はなせん][など][ほか]数軒にて堀切[ほりきり]向島[むかふじま]請地[うけち]西新井[にしあらゐ]等の草花作りは、篭に入れて自身諸所を担ぎ廻り、上等の花は問屋もしくは剪花[きりばな]小売商へ直接販売するものにて、毎朝堀切辺より問屋へ売[うり]に出る者は大約七六十人、西新井辺より五六十人あり。

▼流し売…行商で売る。
▼悉皆…すべて。
▲利益

流し売の下等にて五十銭の本[もと]を八九十銭に売上るより約五割の利あれど、売口[うれぐち][あ]しき時は漸[やうや]く三四十銭より売れず、残花は気候の関係等にて翌日売物とならず、往々塵溜[ごみため]へ投棄する事あれば、平均して約二割位の儲[まうけ]なり。葬式用の生花[いけばな]も五割の利ある時と、相場によりて一割も利なく損する場合もあり。総じて此[この]行商人は、大抵小売の店持[みせもち]多く、自宅には季節向の草花[くさばな]樹花[きばな]を陳列しあれば中等にて百五十円位、下等にても三四十円の資本を投ぜる者なりとす。

▼残花…うれのこったお花。
▲花商の種類

樹花[きばな]即ち梅[うめ][さくら][もも]等を商ふと草花のみを売るとあり。樹花を売る者は春季最も盛況を極め、草花は盆の前後が売口よき時なり。草花売の損得のある時期は秋季菊花[きくくわ]の出盛り頃にて、時に高価を出して仕入れし品物も一夜の内に腐朽[ふきう]する事少なからず。凡[すべ]て此[この]商売に困難なるは降雨時期にして、一年[あるとし]の如きは春季より秋季に掛けて雨天続きの為、此の商人は何[いづ]れも大損せぬはなかりき。

▼腐朽…しおれくさってだめになっちゃう。
▲茶人の花

は花屋泣[はなやなか]せにて、一把の内より幹[みき]、枝振[えだぶり]花の工合[ぐあひ]等を見て撰び出し、一枝か二枝を買ひ取るより、直段[ねだん]は高くとも一割に当らず。


▲営業時間

は午前六時頃より始め午後二時頃仕舞ふもの也。されば俗に此[この]商売を半日商[あきな]ひと云ふ尤[もっと]も田舎の花売は午前二時より売[うり]に出れど、這[こ]足場の遠き[ゆゑ]なり。

▼足場の遠き…町にたどり着くまでが遠いので、自然出発時間が早い。
▲売手と売先

売手は昔は[いさみ]の扮装[いでたち]にて突掛草履[つっかけざうり]に三尺帯を締め小気体[こきてい]の利[きき]し者なるが、今は田舎花売の品が水揚[みづあげ]よしと素人[しろうと]が思ふより、態々[わざわざ]田舎者の風をして行商する者あるに至りぬ。されど事実田舎の花は、上等物は問屋に卸[おろ]し、屑花[くづばな]を売る事なれど、花屋にては其日[そのひ]に売切れると売切れざる時とあり、自然日数を経[ふ]る為[ため]上等物も安物に水揚[みづあげ]劣るより、素人が斯[か]く思ふも無理ならぬ訳なり。さて売行く先にて、繁華の町には何[いづ]れも得意とする廻り付きの花売あれば、流しの商人は辺僻[へんぺき]の町続[まちつづ]きを呼売[よびうり]するを例とす。

荷をすてて花売[はなうり]居らず時鳥[ほととぎす] 西月

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▼勇…鳶や火消し。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい