実業の栞(じつぎょうのしおり)苗売

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苗売

毎年五月中旬より、茄子[なす]、夕顔[ゆふがほ]、隠元[いんげん]、刀豆[なたまめ]の苗[なへ]を売行く苗売商人は、際物師[きはものし]中の際物師にて、其[その]売歩く期間至って短く、五月中旬苗の芽出[めだし]せし時より、六月下旬迄五十日間の営業なり。

▲資本と仕入

商売道具は、蜜柑箱[みかんばこ]六個、糸立[いとたて]天秤棒[てんびんぼう]等なれば、七八十銭も費[ついや]せば一荷の荷物は調[ととの]へらるれど、箱等を新規にせば一円余は掛るべく其[その]仕入先は下谷[したや]の入谷[いりや]を始め、砂村[すなむら]本所[ほんじょ]亀井戸[かめゐど]堀切[ほりきり]等草花を造る場所には苗屋のあらざる処なければ、何[いづ]れも最寄にて仕入するなり。仕入高は一定せざれども五六十銭も出せば一荷へ万遍なく入れ得るなり。

▼天秤棒…行商をするときに、前後に荷物をぶらさげて運ぶための棒。
▲利益金

例の際物とて売手は商振[あきなひぶり]巧拙[こうせつ]に依り、利益の上に大なる相違あり。総別他の行商よりは利益の割合多く、巧者なる商人となれば僅[わづか]卅銭の苗にて一円にも売上[うりあぐ]るなり。

▼巧拙…うまい、へた。
▲行商の人物

際物師の外[ほか]は大抵洋灯[らんぷ]の行商人の変化也。そは洋灯は冬向[ふゆむき]は夜長の事とて自然破損を生ずる場合多けれど、春暖[しゅんだん]となり夏期へ向へば夜短く灯火する時間も減ずれば、従ってホヤ等の損害も少なく、売口[うれぐち][あし]くして営業とならねば何[いづ]れも此[この]苗売に転ずるものなり。さて苗売となる者も、声柄[こゑがら]によりて大に商高[あきないだか]に影響あり、声の美なる者は商高多く、醜なるは売口悪しきは彼[か]の金魚屋抔[など]に同じく、猶[なほ][この]商売は雨天にても更に関[かまひ]なく、売歩く期間も短かければ、降雨なりとて決して行商を休まず、短期の間に夏期中の儲[もうけ]を見る訳なり。

▼ホヤ…ランプの部品のひとつ。
▼声柄…声の質。
▼降雨なりとて…大抵の棒手振りの商人は雨の日はお休みです。
▲売行く先

売歩くには繁華なる町内は流さず、多くは山の手の屋敷町[やしきまち][もし]くは住家の後に空地のある処を撰び、日本橋辺の如き寸尺の空地なき処は売歩かず。さて夜に入れば各所の縁日に店を出すを通例とすされば、素人が此[この]行商を営まんとしても第一呼声の節廻[ふしまはし]が甘[うま]く行[ゆか]ず、従来実験ある商人に比[くら]ぶれば、売口よき苗と悪しき苗との判断も出来ざる上、売行く先も判然せざれば到底失敗は免[まぬが]れ難[がた]く、毎年此商人の出る所は、入谷を以[もっ]て第一とし。亀井戸付近之[これ]に次ぎ、人物は何れも香具師[やぐし]の部類なり。

苗売に初音問はばや時鳥[ほととぎす] 抱一

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▼香具師…やし。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい