実業の栞(じつぎょうのしおり)金魚売

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金魚売

春季より夏季に掛け、弘く世人の愛玩する金魚には和金[わきん]琉金[りうきん]金鋳[きんちう]の三種あり。最も高価なるは金鋳にして、我国[わがくに]に渡りしは寛政前後なるべく、和金琉金の二種は、宝永の以前阿蘭陀[おらんだ]より渡りしものなりとか。其[その]嚆矢[はじめ]は余程古くより行はれたる者なるべく、此[この]行商に就[つい]ての

▼寛政…1789-1801年。
▼宝永…1704-1710年。
▲資本

は魚を入るる小判形の手付き半台[はんだい]と、此中[このなか]に組込む手の付かざる小判形の半台四個にて、一荷十枚となるわり俗に之[これ]を十枚ピッキリと称し八円位、之に丸桶[まるをけ]が大中小三個、一荷に都合六個の割にて二円四十銭位、叉手[さて]が水切[みづぎれ]と客に金魚を取別[とりわか]たするに供する分二本、即ち三本にて五十銭位一荷の半台に入れる金魚の仕入が約八円、されに鏡子玉[ガラスだま]の金魚入[きんぎょいれ]等大小廿個も持行[もちゆく]として、合計廿二三円もあれば商売[あきなひ]に出る事を得べしさて、昔は此金魚売[きんぎょうり][す]べて菅笠[すげがさ]を冠[かぶ]り、絞[しぼり]の広袖襦袢を着[ちゃく]し着衣は態[わざ]と脱ぎて腰の処へ纏め、襦袢[じゅばん][だけ]となり、脚絆[きゃはん]に跣足足袋[はだしたび]を穿[うが]ち、草鞋掛[わらじがけ]にて中々[なかなか]凝ったる身装[みなり]せし者なれど、今は甚[はなはだ]野暮[やぼ]になれり。


▲半台に入れる魚の種類

は先[ま]づ丸桶な替[かは]り鯉[ごひ]、三四歳の琉金、亀の子、或[あるひ]は餌等を入れ、半台には目高[めだか]、屑[くづ]、緋鯉[ひごひ]小琉[こりう]等を入るるを常とし、田舎廻りは自然仕入金多き割合にて、市内なれば売切りても直[ただち]に問屋へ再仕入に行き得れど、旅にありては其様[そのやう]な便利なければ、問屋より廿円なり三十円なりの金魚を仕入るる事なり。

▼自然…おのずと。

▲営業時間

晴天なれば大抵午前八時位より始むるを常とし、其以前には自身溝渠[どぶ]ぼうふらを掬[すく]ひに行き、家に帰りて塵芥[ちりごみ]を除き焙烙[ほうろく]に入れ、金魚の荷と共に持行[もちゆく]事なるが、此[この]餌にて其日[そのひ]の弁当料は出る訳なり。

▼ぼうふら…蚊の幼虫。金魚たちのえさ。
▼焙烙…素焼きの皿状のうつわ。ものを煎ったりするときに使います。
▲利益

八円位仕入たる金魚にて売口よければ、僅か残りても確[たしか]に六七円は儲あれど、行商中に死[お]ちる金魚あれば、差引き五円位の利純ならん。併[しか]し一日に中々其様に売れるものならねば、日割にして七八十銭位の利なるべし。但[ただし]諸道具を借りて仕入金に高利を払へば、之[こ]れより減ずるは論なし。


▲行商の用意

は水をヒタヒタになし、漸[やうや]く魚の半身を浸[した]す位にして出るなり、途中にて余り水が温ると見れば、水の取替も肝要にて、最も熟練を要するは其[その][かつ]ぎ方なり。これの悪[あ]しき時は金魚動揺して、魚と魚とが鼻を突当[つきあ]つるは愚か、半台の縁[ふち]にて鼻を打てば、之が為[ため]売物は死して資本[もと]も子もなきものと成る恐[おそれ]あれば、成[なる]べく動揺せざる様に担ぐ事[こと]金魚売の秘訣なりとす。


▲損料代と仕入先

問屋にて行商の道具を借り商売[あきなひ]に出る者は、少し位高くとも其問屋の外[ほか]より金魚を仕入れざるが掟なり。それ故[ゆゑ]道具の損料代は問屋に於て無代価にて借出す事にて、これぞ所謂[いはゆる]其問屋の荷を捌[さば]くと云者[いふもの]なり、但[ただ]し自身が[たが]を損ぜしとか破損させし時、修繕の費用は借主[かりぬし]にて出[いだ]す。総じて道具は多く借物にて、自分に拵[こしら]へ居[を]る商人[あきんど]は稀[まれ]なり。

▼損料代…借り賃。レンタル代。
▼無代価…ただ。無料。
▼箍…桶をしめている竹の部品。
▲売口よき時期

は四月より八月中ながら、新規に商売に出たる者は旧来の人には及ばず。こは故参の商人には自然年来の得意先ある故にて、世人の多くは他の金魚屋が売りに来[きた]りても、新参の商人よりは人情の上より買取らず、餌一つでも其[その]如くなれば、斯[かか]る商人の得意先を拵[こしら]へるに中々骨の折れる者なり。


▲商売に行く先

は江戸向[えどむき]より漸次山の手へ売歩くものにして、縁日等に出るは子供の手遊[おもちゃ]用が多く、丸子[まるこ]と云へど上等品は持出[もちいだ]さず。目貫[めぬき]の縁日なれば、普通の縁日物より少しく品物のよきを持行ぬとも限らねど、多くは普通の品が大部分を占むると見て差支[さしつかへ]なし。


▲行商の困難

入梅頃にて、雨天続きの時は商売[あきなひ]には出られず、魚の損失する事多し。其[そ]は商人の多くが問屋より行商道具を借用する位なれば、休みし時半台より出して入換え置くべき器物もなければ、入物[いれもの]の狭き為[ため]魚の死するもの夥[おびただ]しく丸損[まるぞん]となり、竟[つひ]には資本[もと]も子も失ふ始末となり、仕入金の才覚に夫婦[ふうふ][ひたへ]を集めて心配する悲境に落入る事珍しからずとか。

水かへて大きう見ゆる錦魚かな 京藁

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▼入梅…梅雨入り。
▼額を集めて…こまりがお。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい