実業の栞(じつぎょうのしおり)文字焼

凡例
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文字焼

これも酸漿売[ほほづきうり]と同じく、子女相手の商売なり。其[その]起源は至って古く、今より一千余年前菅公が筑紫へ左遷せられし頃、里の童児[わらべ]に砂地へ文字を書きて教へられしが、やがて文字焼[もんじやき]嚆矢[かうし]となりとか。されば近き世に文字焼といふ名称出来しに付[つい]ても当初は今の如く鶴[つる][かめ]等の形を焼きしならで、文字のみを焼きたる事疑ひなく、現に太宰府[だざいふ]鷽替[うそかへ]の神事には此[この]古式を存すといふ。

▼菅公…菅原道真。
▼文字焼…粉を水と砂糖で溶いたものを鉄板のうえで焼いたお菓子。文字や動物などのかたちをつくって売っていました。
▼嚆矢…はじまり。
▲資本と仕入

資本金の重[おも]なるは例に依[より]て商売道具一式の買入方に要す。目に見えたるものは焼板[やきいた](鉄製銅製の別あれど多くは鉄製を用ふ)剥[はが]し、粉名[こな]を入れる瓶[かめ]、屋台小車等残[のこり]なく新調して十数円も要すれど、多くは古物[ふるもの]有合物[ありあはせもの]等にて取揃ふる事にて、六七円もあれば充分なり。但し同じ文字焼にてもボッタラ焼きとて駄菓子屋の片商売に、小児自身に焼かしむる分は二円も出せば道具は調[ととの]ふと云ふ、斯[か]くて仕入は原料なる小麦粉砂糖等に二円も投ずるは[じゃう]の口にて、何[いづ]れも商売に出[い]づる前に、小麦粉砂糖に水を入れてドロドロにする事変りなけれど、中には粉名[こな]の力を強くする為[た]め飴を入れるあり、玉子を交[まぜ]るもあれど、これは極めて違例なりとす。ボッタラ焼は其[その]原料これより更に下等なりと知るべし。

▼上の口…上等。
▼ボッタラ焼き…駄菓子屋の火鉢などの上に置かれた鉄板などの上で、子供たちが自分で遊びながら焼いて食べてた文字焼。「もんじゃ焼き」などはこっちから進化したもの。
▼違例…違例。例外。
▲利益

本職の腕達者にて二円の仕入が四円には売揚らるれど、元より一人の手業[てわざ]とここまで売揚るは中々[なかなか]繁忙を極め、手がへし等の助手でもあらば格別一人にてそれより、上は如何[いか]なる老功の者にて、売揚出来ず、それも祭礼などにあらざればこれだけの売揚困難なるゆゑ、平均五六割の利益と見ば間違なからむ。但し同じ商人にても流し売[うり]常見世[じゃうみせ]と区別あり、ここに計算を見たるは流し売を標準とせるものにて、そは流し売の方[かた]多数を占むるを以[もっ]てなり。

▼常見世…床見世などを置いて、決まった場所で販売する方式。
▼流し売の方多数を占むる…車つきの小さい屋台などで販売する行商のほうが多かった。
▲商売の盛期

は四月より五月に掛ての頃にて、最も売口なきは炎暑の候なり。九月より十月初旬は相応に商売あれど、柿[かき]蜜柑[みかん]等種々の菓物[くだもの]と殊[こと]新甘藷[しんいも]が出盛[でさか]る時にて、小児[こども]相手の此[この]商人には大関係を来[きた]すといふ。猶[なほ]商売は晴天を主とすれど、魚市場青物市場等へは雨天にても出店す。そは斯[かか]る場所は他の処と違ひ、軒先も至って深く充分雨も凌[しの]がれ、殊に正午[しゃうご]市の退[ひ]けたる後は、市場の小児[こども]が此処彼処[ここかしこ]の軒下に遊び居[を]るより、全くは之[これ]目的[めあて]なり。されど商売流石[さすが]に晴天に及びもつかねば、此処へ出店者は極めて少数なりとす。

▼炎暑の候…真夏のあつい時期。
▼新甘藷…さつまいもの初物。焼芋の時期になると人気を奪われちゃいました。
▼目的…商売のカモ。
▲一流の名人

新粉細工に梶鍬太郎[かぢくわたらう]あると同じく此[この]文字焼にも技倆抜群の名人あり。神田区鍋町廿五番地の藤田タカ(四十七年)こそ其人[そのひと]にして、彼は男性是は女性なるも一奇とや謂[い]はん。タカは現今まで殆[ほと]んど三十余年の間常に此業に従事し大いに研究する処あり、従って其原料の如きも普通のそれとは違ひ、和製上等の小麦粉に唐三盆[たうさんぼん]の白砂糖を溶き入れ、更に玉子[たまご]晒水飴[さらしみづあめ]等を混和したるを用ひ、得意とする篭入[かごいり]の蕎麦[そば]或は人物動物植物等を焼くに、濃淡の区別判然として、恰[あたか]も写生画を見るが如き感なり、元より唯[ただ]一本の金杓子[かなじゃくし]を以[もっ]て仕上[しあぐ]る業[わざ]なれば、将[まさ]に天賦の技倆なりと謂ふべく、凡手[ぼんしゅ]の遠く及ばざる処なりとす。さればタカは彼[か]の鍬太郎と並びて、諸所の園遊会などへ招かるる事[こと][しき]りなり、日本橋辺の大町家[おほちゃうか]は永年[ながねん][その]定得意[ぢゃうとくい]とて、一度[ひとたび]彼処[かしこ]へ足踏[あしぶみ]せば仕入は残りなく売切わ呈すとぞ。

文字焼も万歳と書けり君が春 一東



実業の栞 終

▼凡手…しろうと。
▼大町家…おかねもち。

実業の栞

明治三十七年十一月十七日 印刷
明治三十七年十一月二十日 発行
定価五十五銭

編纂兼発行者 東京市日本橋区榑正町一番地 堀野与七
発兌元 東京市日本橋区榑正町一番地 文禄堂書店
印刷者 東京市京橋区西紺屋町廿六七番地 石川金太郎
印刷所 東京市京橋区西紺屋町廿六七番地 株式会社秀英舎 

校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい