実説古狸合戦(じっせつこりがっせん)序


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[ば]くる事は狐に優[まさ]りて巧[たくみ]に八変化を為[な]し、その睾丸[きんたま]は拡[ひろ]ぐる時は八畳を布[し]くに足る、春の朝[あした]花の野に婀娜[あだ]たる美人の姿を[か]、秋の夕[ゆふべ]枯尾花[かれをばな]が影に白衣[びゃくい]の大入道を粧[よそほ]ふて人を誑かす甚[はなは]だ妙、闇夜に釣瓶落しの悪戯[あくぎ]を演じて与太公[よたこう]の胆[きも]を冷[ひや]さしめ、月宵[つきよ]に釜を抜いてお三の眼を駭[おどろ]かしめ、得意の腹皷[はらつづみ]には皮の破るるを忘る、猟夫[れうふ]と犬とを怖[おそ]れて注意怠[おこた]らずといへども、時に好餌[かうじ] に釣られて罠に陥[おちい]田五作[たごさく]芋平[いもへい]らが舌太皷[したつづみ]の狸汁に終を告ぐるぞ笑止なる、されど此[こ]は狸の凡なるもの、年古[としふ]り劫[こふ]を経[ふ]るに至って、神通力を得て人語を解[かい]し、事理に通じ道義を悟るの明[めい]ありと聞く、這回[こたび]書肆[しょし]中川玉成堂主[なかがはぎょくせいどうしゅ]講談古狸合戦を上梓[じゃうし]す、事は天保年間阿波徳島に於[おい]て起[おこ]れるもの、その地の古老今尚[いまなほ][もっぱ]口碑[かうひ]伝へて喧[かまびす]しと、就[つい]て見るに従来伝ふる斯[こ]の種の奇談と其[そ]の撰[せん]を異[こと]にし、金長狸[きんちゃうだぬき]なるもの一片[いっぺん]繋がる所の人間の情義[じゃうぎ]断つに由[よし]なく、遂に幾千の狸党[りたう]牙を鳴して相食[あひは]むに至るの叙事活躍[じょじかつやく]妙を極、而[しか]談柄[だんぺい]は概[おほむ]ね狸の世界にありて人間に交渉する甚だ少[すくな]きところ殊に珍とすべし、演者伯龍[はくりう]講談界の巨擘[きょはく]にして二十余年間演述せる材料数百種に及べるも、未[いま]だ斯[かく]の如く趣向の異なるものを知らずと、蓋[けだ]し恐らくは千古絶無[せんこぜつむ]の奇話、三千世界を鐘太皷[かねたいこ]、否[いな]狸の腹を皷[つづみう]って索[もと]むるも亦[ま][そ]の類なからん化物[ばけもの]の正体見たり枯尾花[かれおばな][おの]が影に驚いて絶息する臆病者は偖措[さてお]き、何人[なんびと]一読百驚[いちどくひゃくきゃう]趣味津々[しゅみしんしん]、或[あるひ][あご]を解[と]将又[はたまた][ほぞ]の宿替[やどがへ]を覚えざらんと、縁[えにし]も深き狸毛[たぬきげ]の禿筆[ちびふで]執って巻頭に一言するものは

 腹皷[はらつづみ]大平楽と響きけり

  明治庚戌春日 好狸仙

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▼八畳…たたみ八畳ぶん。俗にたぬきの金玉は八畳ぐらいに広がると言われていました。
▼婀娜たる…いろっぽい。
▼仮り…仮借する。
▼与太公…与太郎。
▼お三…おさんどん。女中さんの事。ごはんのしたくなどをするところから、釜。
▼猟夫…かりゅうど。
▼好餌…おいしそうなえさ。
▼田五作芋平…お百姓さん。「たごさく」も「いもへい」も典型的な名前としてよく使われていたもの。おんなじようなものには他に「もくべえ」などがあります。
▼這回…このたび。
▼書肆…本屋さん。
▼上梓…出版。
▼口碑…いいつたえ。
▼情義…人情&義理。
▼談柄…話柄、話題。
▼巨擘…名人。
▼其の類なからん…さがしても似たものは見つかりませんぞ。
▼化物の正体見たり枯尾花…幽霊や妖怪の正体は案外、単純なものだったりもするのだよ、というたとえ。
▼一読百驚…いっかい読めばおどろかない所がない。とてもおもしろい本の形容。
▼頤を解き…あごのかけがねをはずす。大笑いをする。
▼臍の宿替…へそがやどがえをする。大笑いをする。
▼狸毛…たぬきの毛は筆の毛の優良材料。
▼明治庚戌…明治43年(1910)
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい