▼我社と夕刊との関係は▼前号に記述したる所の如し而[しか]して我社以外嘗[かつ]て夕刊を試みて終[つい]に大成する能[あた]はざりし他各社の当時の状況は時勢の罪とは云へ頗[すこ]ぶる同情に堪[た]へざるものあり左に各社の夕刊発行に関する談話を掲ぐ
翁は▼東京日日新聞創立以来の元勲[げんくん]にして日々といへば▼福地桜痴[ふくちおうち]翁を連想するも桜痴翁は表面に彩華を放[はな]てる人[ひと]西田翁は▼幕裏に在って実験を握れる人[ひと] 新聞経営の側[がは]より言はば固[もと]より西田翁を推[お]さざるべかざる翁は廿七年▼伊東巳代治[いとうみよじ]子が同新聞に関係するに及び同社を辞す記者翁を久松町の▼寓に訪れ同社が曽[かつ]て夕刊を発行せる其[その]前後の模様を叩く
東京日日新聞の夕刊は全然失敗でした明治十八年一月二日より十二月末迄の頃[ころ]当時編集では 福地桜痴、▼岡本武雄[おかもとたけお]、▼宮崎三昧[みやざきさんまい]、▼塚原渋柿[つかはらじゅうし]等の人々あり其日[そのひ]の出来事を其[そ]の日に報道するのであるから此位[このくらい]便利な事はあるまい読者は嘸[さぞ]喜ぶであろうと大得意であったがさて発行してみると▼カラ駄目で新聞と読者が更に気のりがしない夕刊の新聞を読者がまちもしなければ配達の方でも今日の様に若い壮健なものを選ぶではなし老耄で世間に棄[す]てられたやうな人間を遣[つか]ふのであるから下駄穿[ば]きで配達し五時か六時の夕刊を夜の十時か十一時に▼寝入り初[はな]の戸を叩き起[おこ]すと云ふやりかたで起[おこ]される読者も面倒臭いからやかましい明朝[あした]の新聞と一所[いっしょ]に持って来いと怒鳴るなどノンキ千万[せんばん]な事であるこんな調子で▼夕刊の効用は何所にあらうか編集も其頃[そのころ]は大概午後一時ならでは揃はない先[ま]づ夕刊に取りかかると又[また]直[す]ぐ朝刊になる今日の如く第何版など云ふて深更[よなか]迄編集するのではないから夕刊と朝刊は殆[ほとん]ど一所[いっしょ]になり重なり合ふは珍らしからずまして其頃[そのころ]は今日の様な出来事はなし夕刊を終って朝刊に窮する場合もないでなかった配達も前に言ふ如く近所ならまだしも山の手場末[ばすゑ]へ行くと夜が明けるのであるから折角[せっかく]読者に便利を与[あた]へんとしたる目的は▼露[つゆ]だも達せず読者からは尻が来るとも御褒美などは思ひもよらぬ次第であるとうとうヤリ切れず我を折って廃したが此[こ]の間[かん]僅[わづ]か半年も経たであらうか尤[もっと]も東京日日は昔時から泥棒や姦婦さわぎで売れた新聞でないから柄[がら]にない企[くはだ]てであったかも知れぬが兎[と]に角[かく]看客の身の入れ方がグッと違ふから此[こ]の企[くはだ]ては意外に呆気なく終った当時の日日新聞は平時で一万足らず▼西南事件で一万を越したが代価は一ヶ月八十五銭で新聞は楽で優に儲けがあったもの今日とは全[まる]で反対今日は苦心に苦心を重ねて尚且[なほかつ]直段[ねだん]を安くせねばならぬが当時は骨が折れずに高価で売れたのであるから今の新聞経営を思へば実に楽極ったものであった夕刊を発行するには第一配達人をまさなければならず他にも種々な費用が掛[かか]りそれで読者に歯応[はごた]へがないのであるから終[つい]に廃刊せざるを得ぬが時勢ほど争はれぬものはありませんよ序[ついで]だが当時の広告と云ふと一行三銭位で受付へ之[これ]を頼みに持って来ると▼記事の都合で明日出るか明後日出るか分[わか]らないと済[すま]した時代▼編集記事に重きをおき広告などは何とも思わなかった斯[かか]る平穏無事であった新聞紙界も▼時事新報の直段[ねだん]の競争より▼東京朝日新聞の時代になって漸く相[あい]いましめ互[たがひ]に奮[ふる]ふ今日となり貴社夕刊の成功の如き実に今昔の感に堪へません