実業の栞(じつぎょうのしおり)菓子商

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菓子商

菓子の起源は至って古く、饅頭の如きは殆[ほと]んど六百年前[ぜん]に製造されたるものなりとか。さて市中の上等店は本郷の藤村[ふじむら]、南伝馬町其他[そのた]米津支店の風月堂、岩付町の田月[たげつ]、堀江町の清寿軒[せいじゅけん]、三十間堀の菊の舎[や]、赤坂の菊寿軒[きくじゅけん]、西の久保の壷屋[つぼや]、元数寄屋町の塩瀬[しほせ]、一の橋の越後屋[ゑちごや]、上野の空也[くうや]、及び黒川[くろかは]虎屋[とらや]等にして、売高[うれだか]多きは栄太楼[えいたらう]、風月堂、岡埜[おかの]等なりとぞ。元来此[この]商売維新前までは京都が其[その]根元地と目されしかば、江戸中の菓子舗[くわしほ]の看板に京御菓子[きゃうおんくわし]と記ししものなりしが、今は東京が遥かに進歩せり。尤[もっと]も京都にも今出川[いまでがは]塩路軒[しほぢけん]等流石[さすが]に上店[じゃうみせ]なきにもあらず。

▼饅頭…足利時代に林浄因が伝えたものが広く日本のおまんじゅうのモトとなった事で知られています。
▼市中…東京市内。
▼維新前…明治になる前。
▲資本金

は一万円にても千円にても又僅[わづか]に百円ぐらゐにても始められ。露店となりては唯[ただ]数円の資本にても出来得るなり。されど普通菓子舗と称するには千円位は必要なるべし、此内[このうち]より製造場入用器具の費用原料の購買資金を差引く時は、三四百円しか残らぬもの也。


▲原料の仕入

は小豆[あづき]と砂糖が金高[きんだか]ゆゑ、相応の店にても雑穀屋砂糖屋に負債なきは少なかりしも。近年はいづれも多少の資産家となりしは目出度[めでた]し。又下等の店は小豆を仕入ず、製餡会社[せいあんがいしゃ]より煮たる餡[あん]を買入て之[これ]を用ゆ。

▼金高…費用が高額。
▼製餡会社…あんこを製造販売してる業者。
▲利益

はいろいろなれど、先[ま]づ蒸菓子[むしぐわし]は平均二割位、干菓子[ひぐわし]又これと同じく、雛菓子[ひなぐわし]柏餅[かしわもち]等の際物[きはもの]は五割以上、赤飯、鳥の子餅、ちん餅等は四割の儲、平常[へいぜい]製造の餅菓子は手間のかからぬ一種物[ひといろもの]に利ありとぞ。

▼雛菓子…桃の節句に売り出される、あられや豆など。
▼柏餅…端午の節句に売り出されるお餅。
▼ちん餅…賃餅。もち米やあわ、ひえなどを客から受け取ってお餅にすること。
▲客引の菓子

といふもの何処[いづこ]の店にも必らず一品づつはあり、栄太楼の甘納豆、藤村の最中、風月堂の粕底羅[カステラ]、ビスケット等はこれにて、何[いづ]れも風味よき割に安直なるは全く店の呼物[よびもの]にて、幾分かの損の行くものなりと。

▼安直…値段がお安い。
▲折詰

は菓子の色気配合に熟練を要するものにて此[この]巧拙は見た目に甲乙を生じ、水引[みづひき]の締方[しめかた]もまた大切なり。此[この]折詰[をりづめ]例へば十銭の品ならば、中身は七八銭の上りにて、意匠を施したる折[をり]となれば、中身は代価の半額より這入[はいら]ず。

▼水引の締方…お菓子をつめたあとの折箱にしめる水引は、用途や送り先にあわせて何種類かの掛け方がありました。
▼意匠を施したる折…特殊な形の折箱など。
▲駄菓子の卸売

雑菓子所謂[いはゆる]駄菓子は全国へ向け弘く卸売するより、普通の菓子舗より取引高も多く、品により砂糖の原価に二分三分の利を見ればドシドシ製造を為[な]し行くなり。


▲素人の商売

としてもさして六箇敷[むづかしき]事ならず、即ち菓子舗より五厘売を十銭に廿四個の割もて卸し来れば、四個二銭といふ利を見られ、駄菓子は一銭に三個を二個に売る事ゆゑ、自家に職人を置きて心配り[こころづか]ひするよりも、此方[このかた]さしたる手数も要らず、従って大なる失敗もなし。

爪紅の指でつまむや嘉定菓子[かじょうがし] 許六

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校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい