実業の栞(じつぎょうのしおり)煙草商

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煙草商

煙草営業は明治三十七年六月三十日限[かぎり]民業終りとなし、七月一日よりは官業とて大蔵省煙草専売局の一手にて製造販売する事となれり、従来葉煙草問屋製造問屋と呼れたるものにて、猶[なほ][その]業を継続する向[むき]は、政府に願出たる上その許可を得て、元売捌人なる名称の下に、政府製造の品物を払下げ、更に之[これ]を小売業者に売捌くといふ 、云はば仲買の如き状態となれり。従来此[この]業の旧家として知られたる者、即ち大門通りの鶴岡[つるをか]本両替町の田中佐次兵衛[たなかさじへい][とほり]二丁目の外池[といけ]神田平川町の[かう]の屋などといふ面々は皆この元売捌人となり、其他[そのほか]七月十六日までに元売捌人と指定されたるもの都下に九十六人あり。

▼明治三十七年…1904年。
▼大蔵省専売局…昭和24年(1949)に日本専売公社が出来るまで、煙草の専売生産はココの名の下に行なわれていました。
▲元売捌人

さて目下の処[ところ]元売捌人が政府に煙草の払下を願ふには、先[まづ]書面を専売局出張の製造所へ差出し、同所より代金の令書を受取り、之[これ]に現金を添へて中央金庫即ち日本銀行へ金を納め、折返して其[その]領収証書を製造所へ差出し、更に浅草蔵前[くらまへ]の元米庫[もとこめぐら]へ品物を受取に行くといふ順序なれば、元売捌人の閉口大方ならず。さるにても口付煙草[くちつきたばこ]の分は第一製造所の係ゆゑ、其[その]所在地たる銀座と中央金庫とはさして掛離れ居[をら]ざれども、両切[りゃうぎり]は芝田町の第二製造所の取扱ひゆゑ、此処[ここ]は中央金庫それより蔵前へ出[いづ]るといふは中々[なかなか]手数の懸[かか]った事なりと、官業始りて猶ほ日浅けれど已[すで]大こぼしの体[てい]なりとは左[さ]もあるべし。斯[かく]て政府の卸直段[おろしねだん]は定価の一割五分を引くのみなれば、割に合[あは]ぬは元売捌人にて、小売との間[なか]に立[たっ]て儲る処[ところ][わづか]に三分に過[すぎ]ず。其上[そのうへ]代金は悉[ことごと]く前納の事にて、万一人の金などにて営業する場合などは、迚[とて]も商売にはならぬものなり。

▼大こぼしの体…ブツブツと小言がこぼれる。
▲小売商

その代り従来より却[かへっ]て気安く成[なれ]るは小売商にて、今までの如き競争なければ、利益は前より確実にて又平均となれる勘定なり、併[しか]しまた困難も之[これ]に伴ひて、第一には元売捌人へは現金払の事となり、第二には少許[すこしばかり]は元売捌人が面倒がりて売呉[うりくれ]ざるべく、第三には包紙の封の損じたる時は一々専売局より引換を請ふといふ手数を要する事なりたり。されば従来二三百円の資本を持て始めし物も、勢ひこれより稍[やや]多額を要する事になるべく、彼[か]の荒物屋[あらものや]などの片商売[かたしゃうばい]としたりし者などは自然に消滅する事となれり。

▼競争…安値販売の商売競争などが起こっていた事を受けた文。
▼片商売…兼業。
▲専売局製造の概況

は従来民間の大製造所を買上げ、これを其侭[そのまま]用ふる事なるが、当分は全国に五箇所の製造所を置く筈[はづ]にて、即ち東京[とうきゃう]に二ヶ所、京都一ヶ所大阪一ヶ所鹿児島一ヶ所といふ勘定なり。さて東京の第一製造所は元の千葉[ちば]岩谷[いはや]の工場[こうば]にて、ここにては口付[くちつき]九十万貫、第二即ち元の村井[むらい]工場にては口付十万貫両切三十五万貫、京都の同じ元村井工場にて口付両切合せて四十万貫、大阪にて口付十万貫、鹿児島にて口付五万貫を造る目算なるが、猶[なほ]東京にては各所に三十ヶ所の分工場ありて、これに一万人の女工を使用する事と決し、折柄[をりから]日露の戦争にて数多の出征者あれば、その家族遺族をして多くこれに従事せしむる事になしたり。さてその先[まづ]製造されたるものの名に、本居宣長[もとをりのりなが]翁の歌より朝日[あさひ]大和[やまと]敷島[しきしま]山桜[やまざくら]などといふ称を付したるも、一は時局に因[ちな]めるなり。

▼東京…「とうけい」ではなく「とうきゃう」となっている読みに注意。この文では以下すべて「東京」に「とうきゃう」と振られています。
▼千葉…千葉煙草。主な銘柄は「牡丹」など。
▼岩谷…岩谷煙草。「天狗煙草」で全国に知られていました。
▼村井…村井煙草。「ヒーロー」などで岩谷と大いに価格競争をしていました。
▼本居宣長翁の歌…「しきしまや大和心を人とはばあさひに匂ふ山桜花」
▲煙草の産地

中第一の銘葉[めいは]を出[いだ]すは俗に薩摩国府[さつまこくぶ]とて大隅国出水[でみづ]、続[つづい]て水戸の太田赤土、中は相州秦野、下は上総磐城等にて、此中[このうち]秦野産は上にも中にも用ひらるる便利なる葉煙草なり。尤[もっと]も製造法は葉煙草の配合に注意するが肝要にして、一ヶ国の産葉[さんえう]のみにては甘[うま]く吸へず、必らず他国産を混ずるものと知るべし。

燕子花たばこの煙りかかりけり 蒼
枯野十里たばこといへる友ありて 杉下
雪の日や一と吸ひつつの巻煙草 蚊鹿

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▼薩摩国分…「おはら節」にも「花は霧島たばこは国分」という文句があって有名。
▼出水…いずみ。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい