実業の栞(じつぎょうのしおり)糸商

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糸商

市中[この]業の問屋と称するは五十七軒あり、小売は約四百軒にして、これに兼業者を加ふれば殆[ほと]んど千軒の上に達す。最も旧家として名あるは、日本橋通[とほり]二丁目の山形屋、下谷上野町の枡田屋大丸糸店等にして、何[いづ]れも百数十年以前より此[この]業に従事せり。

▼市中…東京市内。
▲資本金

単に糸屋と称すとも、綿糸、毛糸、麻糸、絹糸、かせ糸、染糸等の各問屋ありて、その別[わかち]なかなかなれど、先[ま]づ問屋といふには一万円以上の資本は要すべく、これに流通資本の二三万円もあらば充分なり。


▲取引と利益

産地との取引は多く延取引[のべとりひき]にて約一ヶ月の向払[むかばら]ひ、利益は一定しがたけれど、中には一割以上の品もあり、二三分位の薄利なるもありて、平均五六分の利は確[たしか]なり


▲繁忙なる時期

は十月より翌年一月へかけての間なるが、閑散なるは八九の二ヶ月なり。尤[もっと]此余[このよ]の月とてもさしたる盛衰[せゐすい]はなしとの事なり。

▼此余の月…このほかの月。
▲仲間の売買

は卸売するより却て利益多きものなり、生糸[きいと]は各産地と横浜との取引に限られ、市中には格安の品の外[ほか]取引はなし。されど生糸相場の変動は何[いづ]れも此[この]商売に大関係を持てる事勿論なり。


▲小売商

となれば一万円の資本にても一千円にても又僅かに百円内外にても出来るものなり。何故[なにゆゑ]かく甚だしき懸隔[けんかく]あるかと云ふに、小なるは荒物商売の片手間にも出来得るものなれば也。稍[やや]大きくなしても単に糸のみならず、麻毛糸木綿糸なども合[あは]せ置き、羽織紐[はおりひも]の出来合[できあひ]を店の飾[かざり]となすなど、全く糸専門なるは鮮[すくな]し。斯[かく]て利益は平均一割五分内外、羽織紐は概して三割以上に及び、紺白赤の木綿糸は五分位の見当也。

▼懸隔…へだたり。
▼針…針は、銀座のみす屋など専門店もありますが、糸屋でも販売されていました。
▼羽織紐…羽織の前につける組みひも。
▲仕入と支払

素人[しろと]より此[この]商売を始めんと思はば店に相当する丈の品を問屋の撰定に任すがよし。但し此[この]場合問屋の如何[いかん]をよくよく糺[ただ]して掛る事肝要にて、如何[いかが]の店となれば白絹糸の目方をザラメ砂糖にて付けたるを売る事あり、染糸となれば猶更[なほさら]色気によりて染草[そめぐさ]の為目方を増すものゆゑ、一層注意を要す。さて問屋への支払は何[いづ]れも延取引が例なり。

▼色気…糸の染め色。
▼染草の為…染料のために。
▲売口よき糸

は木綿の紺白赤等にて、生糸は花色を第一とす。当時は仕立屋にても真の絹糸は用ひず、大抵瓦斯糸[がすいと]を使用し、仕付糸の如きも多くはカタン糸を用ゆ。さて祝儀物となれば元より売口よしとは云へざれど、其[その]代り三割以上の儲ありとぞ。

▼花色…はなだ色。うすい青。
▼当時…現在。
▼瓦斯糸…木綿糸をガス火で焼いて光沢を出す加工をしたもの。
▼カタン糸…木綿糸にガス火や糊などで光沢を出す加工をしたもの。
▼祝儀物…贈答用の絹糸の束など。
▲度量の巧拙

は此[この]商売に大関係を持ち、若[も]し拙なる時は正味一匁の糸も八分より懸らず、巧[たくみ]なる時はこれと反対に行くより、其[その]差異だけにて非常なる損徳あり。


▲小売の秘訣

といふは僅[わづか]一寸の糸なりとも、又縺[もつ]れを生じたる時なりとも、決して之[これ]を捨[すて]ず気を永くして丹精し置けば、遂には塵積って山の譬[たとへ]、いつしか金となるものゆゑ、平常[へいぜい]の心懸こそ肝要なれ。

恋さまざま願ひの糸も白きより 蕪村

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校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい