実業の栞(じつぎょうのしおり)綿商

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綿商

[この]商売には操綿[くりわた]問屋と打綿[うちわた]問屋との二種ありて操綿問屋は東京市中唯[ただ][わづか]に六軒あるのみ、打綿商にて信用ある重立ちたる店は十二三軒あり、小売商に至りては其数最も多く、殆んど百二三十軒に達す。但し此方[このほう]には問屋は一軒もなく、これは利益が極めて薄きと、取扱ひ不便なるを厭[いと]ひての結果なり。さて有名なる問屋は日本橋区通[とおり]四丁目の西川庄介、同堀留町[ほりどめちゃう]日比谷平左衛門等にて、小売商にては芝区の堺屋、日本橋区本町四丁目の藪屋[やぶや]、同通[とおり]一丁目の水島、本郷区四丁目の枡屋等何[いづ]れも聞[きこ]えたる店なり。

▼操綿…繰綿。綿くりをしただけのわた。
▼打綿…打ちの工程をほどこしたわた。
▲資本金利益取引

資本金は問屋の大小に依って非常なる差異あり、小は一万円位より大なるは五六十万円に達し、小売商も又同じく二千円より七八千円位を要するものと、僅々[きんきん]四五十円より二百円以内にて営業を為[な]し行くものもあり。利益は原料に生綿[きわた]をのみ用ふる時は極めて薄利にて、先[ま]づ五六分より一割に止[とど]まるものなれども、斯[か]く正直に営業する向[むき]はなかなか稀[まれ]にて、大方[おほかた]紡績屑綿[ぼうせきくづわた]を混合する処[ところ]多く、従って一割五分より二割までの利益は容易に見る事を得るなり。其[その]取引は何[いづ]れも現金にて、小売の末に至るまで貸売は一切なけれど、旧来取引を為[な]し居[お]る問屋の間には多少の貸売ありとぞ。斯[かく]て営業の繁忙期は八月より十二月までにて、一月より七月に至る七ヶ月は月毎に閑散に趣くもの也。

▼僅々…ほんのわずかの。
▼生綿…わた100%。
▼紡績屑綿…紡績加工の工程で生じる屑。
▼小売の末に至るまで…小売店各店でも。
▲綿の産地と種類性質

和綿[わわた]の多数産出かるは三州を第一とし、尾州下館[しもだて]武州埼玉[さいたま]羽生[はにふ]等之[これ]に次ぎ、他府県は極めて少数に止[とど]まれり。其他は清国[しんこく]南北市[なんぼくし]及び寧波[ねいは]等より輸入す。地綿は引力[ゐんりょく]最も強く清国産は夜具綿に使用するには極上等にて、殆んど地綿と差異なきものなり。生綿と称して混合品なきものは少しも固まらねど、紡績落屑綿を混じたる打綿は全く之[これ]に反す。真綿は岩代福島産を以て最上品とし上州信州甲州等之[これ]に次げど、売品[ばいひん]となるものは前者にて、後者は殆んど売物とならず、品質の相違も非常にて、後者は先[ま]づ前者の比べ物とはならぬものなり

▼和綿…日本産のわた。
▼三州…三河の国。
▼尾州…尾張の国。
▼武州…武蔵の国。
▼引力…わたの伸び。
▼夜具綿…ふとん等の中に入れるわた。
▼上州信州甲州…上野、信濃、甲斐の国。
▲営業の状態

打綿商は他の商売の如く、何時[なんどき]にても問屋より仕入れ、直[ただち]に之[これ]を受売[うけうり]する事ならず、どうでも一度は卸売の手を経て、之[これ]に幾分の口銭を仕払はねばならぬ規定となり居れり。猶[なほ]蒲団屋[ふとんや]にて受売する品は、何[いづ]れも紡績屑綿半混合品と定まれり、之[これ]は生綿にては卸[おろし]する綿屋の利益極めて薄きと共に、蒲団屋にての売価が打綿商のそれより高くなるより、そを厭[いと]ひて斯[か]くは定め置けるなり。


▲祝儀真綿

進物用として特に多くの手間を掛けたる品なるが、これにも二種の別あり、一は予[かね]て店頭の装飾同様に陳列しあるもの、二は註文を受けたる時に原価だけの袋真綿[ふくろまわた]を以て調整したるものにて、店頭の陳列品は見掛[みかけ]こそ至極立派なれ、其実[そのじつ]不経済此上[このうへ]なきものにて、例へば五円ほどの細工物も真味[しんみ]は殆んど二円内外の品にて、差引[さしひき]三円は形容其他の手間として見らるべきものゆゑ、信用ある商店にては得意先より已[や]むなき註文を受けたる時ならでは造らぬ事なり。さて普通の鱗形[うろこがた]蝶形[てふがた]角形[かくがた]等の品は、手堅き店にては手間賃なしに信切[しんせつ]に造るより、体裁も好く取崩しても直段[ねだん]だけのものはあるなり。

▼進物用…贈答用品としてつかわれる真綿。わたを束ねて作る結綿(ゆいわた)のこと。
▼真味…ほんとう。
▲職工使用の困難

[す]べて此[この]商売ほど職工と商店と密接の関係あるものはなし、店によりては年中変りなく数十名の職工を使用すべき状情ありて、平日に於て相当なる使用を為[な]さざる時は繁忙期に大困難を来[きた]す恐[おそれ]あるなり。其[その]訳は此[この]職工は元来手間賃至りて少額なるゆゑ、一月より七月までの閑散期となれば、耐[たま]らず大抵は他に忙しき口を求むるより、商店は此際[このさい][かか]る事なきやう、常に職工を引止むる策を取る事肝要なりとす。其為[そのため]随分此[この]閑散期に蔵内[くらうち]に打綿滞積して何とも仕方なき事あれど、これ畢竟[ひっきゃう]職工を引止むるが為の策に外[ほか]ならず、職工の為には人知れぬ困難あるは此[この]商業なるべし。

名月の花かと見えて綿畠 芭蕉

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校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい