実業の栞(じつぎょうのしおり)油商

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油商

油屋と云へば今では全く石油のみを取扱ふやうになりしが、実[じつ]種油[たねあぶら]香油[かうゆ]をも販売する事なり。然[しか]し灯火の原料昔時[せきじ]と異[こと]なり、仏前などの外[ほか]今は絶[たえ]て種油を用ひざれば、此方[このほう]の需要[とみ]に減じ、香油も亦[また]年一年と束髪[そくはつ]の流行するに連れ、其[その]用途とだえたれば今はほんの小間物屋にて売捌[うりさば]くに止[とど]まり、所謂[いはゆる]油屋なるものは一に石油専門となりぬるも時勢の然[しか]らしむる処たるべし、さて油屋の問屋といふは蠣殻町[かきがらちゃう]の油市場組合員たるもの五十軒あり。何[いづ]れも手弘く営業し居れど、矢張[やはり]大商店としては彼[か]スタンダード会社浅野タンクの二者を推[お]すべく横浜の三名商店[さんめいしゃうてん]またこの二店に譲らざるものにて又普通の問屋中にも自[おのづ]から石油問屋と種油問屋との別あるなり。

▼石油のみ…ランプの普及によって、灯油は石油が主流になって来ていました。
▼種油…菜種油などの植物製の灯油。ランプや電灯が普及する以前はこれや魚油などが照明のための灯油として使われていました。
▼昔時…むかしむかし。
▼仏前…ほとけさまのお灯明。
▼頓に減じ…すっかり減って。
▼束髪…従来の島田髷などをつくる結髪ではなく、西洋風にならって型づくられた髪型。
▲小売店

世に油屋ほど利益なき商売はなく、従って小売店として之[これ]のみを以て独立し行かん事[こと][とて]も出来得べき事ならず、されば其[その]多部分は先[まづ]荒物屋などの片手間に為[な]すものにて、亭主は其上[そのうへ]日々行商に出[い]でざれば、到底口を糊[のり]する事難かるべし。

▼多部分…大部分。
▼口を糊する事…ごはんを食べてゆく。
▲資本金

[すで]に斯[かか]る片手間のものなれば、其[その]資金として要する処も極めて少額にして、小は僅かに五円位より仕込[しこま]ざる店もあり、其[その]二十円も投ずる向[むき]となりては、先[まづ]小売商として(つまり片商売の)立派なるものと謂ふ可[べ]し。但し普通問屋としては少なくも三千円は要すべし。


▲利益

の少[すくな]きは又驚くばかりにして、小売となりても漸[やうや]く明物儲[あきものまうけ]ぐらゐのものなり。問屋の側は一層烈しく一缶に付[つき]やうやう一銭五厘か二銭位の処ながら、これは大なる取引を為[な]すより、相場の高低によりて少[すくな]からぬ利を見行くものなり。


▲取引

かかる薄利の商売ゆゑ、小売へ卸すには凡[すべ]て現金の規定にて、決して貸売[かしうり]はせざるものなりとぞ。


▲繁忙の時期

は無論石油が主となり居[を]れば夜長[よなが]の時分即[すなは]ち十月頃より翌年二三月頃までとし、種油は正月と春秋の彼岸[ひがん]に稍[やや]売行あれども、之[これ]とてさして多量とは云ひがたし。

初雁や遊女に油ささせけり 蕪村

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▼正月と春秋の彼岸頃…神棚や仏壇におそなえするお灯明につかうため、この時期に需要があったようです。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい