実業の栞(じつぎょうのしおり)荒物商

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荒物商

此業は飲食物などと共に、吾人[ごじん]が日用品として欠くべからざる物品を商ふ事とて、苟[いやし]くも人家の立並べる箇所には、店に大小の別こそあれ、何処[いづこ]の小路[こうぢ]にもその営業者を見ざる事なし。市内には問屋としての店も少[すくな]からねど、その最も大なる者に至りては之[これ]を地方に見るべく、上毛[じゃうもう]野州[やしう]辺には一箇年の売揚高[うりあげだか]拾八九万円に上るものもありて、其[その]送荷[おくりに]する先は主として東京及び横浜なりと云へるが、実[げ]に数多[あまた]の人口を有する都会にては、其[その]需要年々に増加するとも決して減少する事なかるべし

▼此業…荒物屋さんは、台所用品や家庭用品を多くあつかっている商売。
▼吾人…われわれ。
▼上毛野州…上野国、下野国。
▲問屋小売の資本金

一口に問屋と云へば如何[いか]にも規模大なるかの如くに考へらるれど、中には小売より小なる所もあれば、其[その]資本金とても一定しがたけれど、普通可成[かなり]の問屋店としては二千円も投ずれば、物品の運用も自由にして、其下の小売店となりては六七百円の処にて開業し行かるべきなり。さりながら問屋は云ふまでもなく、可成[かなり]の小売店として店を張り行くには、余程繁華の場所ならでは困難にて、山の手の如き人口少[すくな]き所にありては迚[とて]も立行[たちゆき]がたかるべし。その故は同じ日用品ながらも飲食物などと違ひ、各家日々の需要なきを以て、住民少数なる辺にては売行[うれゆき]極めて少なければなり。


▲所謂小売店

されば市中の各所に散財する多数の所謂[いはゆる]小売店なるものは、其[その]規模至って小にして、余程怪しげなる営業者なりとす。即ち店に陳列されたる荒物中の小物のみに、紙類[かみるゐ]駄菓子[だぐわし]煙草[たばこ]石油[せきゆ]などまで雑然と押並べられたる体裁なり。付近の住者が日日の需要に応ずるには、これ以上物品を取揃ふる必要なければ、勢ひ斯[かか]る状況[ありさま]にて営業を為[な]し行く事なるが、さてこれへ要する資本といふべきは、極めて少額にて足れり。荒物五十円を頭[かしら]に紙類四十円、煙草石油駄菓子合せて十五円乃至[ないし]二十円も仕込[しこめ]ば、やがて二間々口[にけんまぐち]位の店は成立[なりたつ]なり。而[しか]うして其[その]利益は通じて四割を見らるべければ、資本の割には面白き営業のやうに思はるれど、さても需要者にありて物品の消耗はさして甚だしきものならねば、日々の売行は極めて少なしと知るべし。

しぐるるや荒物店の子守唄 杉下

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▼石油…ランプなどに使う灯油。
▼付近の従者…近所のひとびと。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい