実業の栞(じつぎょうのしおり)書籍商

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書籍商

此商売の種類は中々[なかなか]多けれど、大別すれば出版、取次、古本の三種なり、出版専門の内にも帝国書籍株式会社大日本図書株式会社六盟館開成館成美堂目黒松邑水野老鶴圃等の如き中小学校教科書専門の向[むき]もあり、春陽堂文禄堂の如き文学専門の店もあり、南江堂朝香屋等の如き医書専業あり、建築書院の如き工業専門あり、或[あるひ]博文館東京堂嵩山房大倉の如き教科書以外の参考書等多方面に及ぶもあり、其他[そのほか]冨山房金港堂弘文館林平前川等の如きは教科書参考書文学書類を兼ね裳華房有隣堂等は農業書を専門とし、法律書には有斐閣清水書店あり、田口博士経済雑誌社は大部の史料を事とし、丸善株式会社は洋書の取次と実業書の出版を重[おも]とし、大川屋金桜堂等はいはゆる講談物を専業とするなど多種多様なれば僅[わづか]に其[その]一斑を示すのみ。

▼田口博士…田口卯吉(1855-1905)号は鼎軒。法学博士。大蔵省翻訳局などに勤めたのち『東京経済雑誌』などを創刊。経済雑誌社では『史海』などの史学雑誌も発行していました。
▼講談物…時代もの世話もの様々な講談を速記して出版したもの。
▲取次と小売

取次を手広く扱ふ向[むき]は市内に十数軒なれども、小売は殆[ほとん]ど千軒に及ぶべく、暑中休暇の間は重なる顧客が帰省中の事とて、商売の方も休暇の如き観あれど、其他[そのた]はいづれも門前市をなすの有様、文運の発達目出度[めでたし]といふべし。

▼暑中休暇…なつやすみ。
▼重なる顧客…先生や書生さんなど。
▼文運の発達…読書熱の上昇具合。
▲古本屋

に至りては其数[そのかず]また夥[おびただ]しく神田の或[ある]一町内に三十有余軒甍[いらか]を並べ居るにても知る浅倉屋斎藤松山堂高岡等を大なりとす。


▲資本

出版業となれば極少なくとも五千円以上取次業にて少し手弘くせば三千円位は入用なり、されど一寸[ちょっと]した小店なれば五百円もあらばよし。


▲利益

出版業は随分暴[あら]き商売なれば。損益を平均すれば先[ま]づ二割と見て大差なかるべく、古本はこれ以上に上る事論なく、取次は卸の方三分乃至[ないし]五分、小売は一割位なれども世利市会[せりいちくわい]などにて仕入れたる格安物などにて時には三四割にもなる事ありとぞ。


▲教科書の取引

惣じて荷為換[にかはせ]或は月末払ながら取引店よりは何[いづ]れも信用金として、多きは四五千円少なきも二三千円の現金を預り居り、之[こ]れに銀行並の利子は付し居れど、その為[た]め決して品物の支払金は容赦せず頗[すこぶ]る厳格なるもの也[なり]


▲貸本屋

は多く講談類を置き併て文芸倶楽部[ぶんげいくらぶ]新小説[しんしゃうせつ]さては諸名家の小説類を仕入[しいれ]、その貸料[かしれう]は一定しあらねど、人気よきもの二三百冊を蔵し居れば、一ヶ月の収利優に五両一分には当るといふ。但し花柳界へ脊負[しょ]ひ行くものはこれ以上の利を得る事いふまでもなし。

▼収利…利益率。
▼花柳界…遊女や芸者のもとへ貸本屋さんがまわってゆくのは江戸のころから続いている営業径路でした。また「文芸倶楽部」などの雑誌は巻頭に芝居界や花柳界の人気者の写真を載せていたりもしました。
▲露店の古本屋

は僅[わづか]に三円以上廿円の資本あれば随分やりやう次第にて、なかなか面白き利潤ありとぞ。

実業の栞もかざれ恵比寿講 百帆

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▼露店の古本屋…銀座など人通りの多い露店街や縁日などに店を出していたもので、掘り出し物なども多くあったようです。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい