実業の栞(じつぎょうのしおり)小間物商

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小間物商

[この]商業は維新[ぜん]まで内地製の品物のみ販売せしものなれど、其後[そのご]西洋小間物輸入し来[きた]りてより、之[これ]をも兼業なすものありて、今は和洋混交の状態[ありさま]なり、問屋の旧家は日本橋横山町の天野源七[あまのげんしち]、同橘町の丸見屋善兵衛[まるみやぜんべゑ]等其[その][おも]なるものなるべく、小売にては浅草駒形の中島屋百助[なかじまやひゃくすけ]、同所紅勘[べにかん]、日本橋通一丁目柳屋[やなぎや]等各名ある店なり。

▼維新…明治維新。1868年。
▲問屋組合と小売組合

[この]商売には問屋組合と小売組合との別ありて。仲買といふものはなし。問屋の巣窟は日本橋横山町馬喰町等にして、十中の九部まで地方の商人を顧客[とくひ]に為[な]す向[むき]多く、市中の小売を相手とするは僅[わづか]に数軒に止[とど]まり、組合三百有余名の中[うち]、純粋の小間物問屋と称するは三分の一位にして、余の組合員は石鹸[しゃぼん]化粧品商等が加入し居[お]る訳なり。

▼市中…東京市内。
▲問屋の資本利益取引

手広く取引する問屋となれば、数万円の資本なくては叶はねど、先[ま]づ五千円もしくは三千円位にても出来ざるにあらず、但し是[これ]以下にては、迚[とて]も問屋とは称しがたかるべし。利益は平均五六分以上に上り、最も利あるは安物の花簪[はなかんざし]にして、薄利なるは白粉[おしろい]歯磨[はみがき]等なり。凡[す]べて是等[これら]の品物は決算期に際し、製造元より三分の口銭を問屋に差出すを例とし、卸直[おろしね]は零なりと知るべし。さて取引は現金の規定にして、数年も取引せる結果信用すべき者にても、成るべく現金と為[な]しあれど、時に一ヶ月位の延取引[のべとりひき]なしとも限らず。是等[これら]は問屋の任意なり。猶[なほ]取引の繁忙なるは三月四月十月十一月十二月の五ヶ月なりとぞ。

▼歯磨…はみがき粉。砂と塩と香料をまぜたものがまだこの頃は主流。
▲小売商

は市中到る処[ところ]にあり、美術的の装飾品を販売する者と、安物の花簪[はなかんざし]白粉[おしろい]元結[もとゆい]石鹸[しゃぼん]油などを売捌[うりさば]く者との別ありて、美術品商は少なくも五千円以上の資本は要すべく、大西白牡丹[おほにしはくぼたん]玉宝堂[ぎょくほうだう]等は此[この]部類にて、又鼈甲[べっかう]及び贅沢品[ぜいたくひん]を取扱ふは葺屋町の小川専助[をがはせんすけ]最も旧家なりと聞[きこ]えたり、さて花簪[はなかんざし]などを売る店なれば、二百円乃至[ないし]五百円もあれば立派に店は飾らるるものにて、露店となれば二三十円の資本を投ずれば充分なりとす。

▼元結…髪の毛を結ぶために使う細長い紙。
▲仕入先

は問屋よりすると職工より購求するとありて、職工にも問屋付属と小売付属との区別あり。されど美術品を製造する職工は此[この]部外なりと知るべし。


▲利益

は高価なるものに至りては殆[ほと]んど五割位に当れど、これは数が出[い]でねばさして勘定には入らず、惣じて安物に利益多く、殊[こと]に下等の花簪[はなかんざし]となりては倍額の儲[まうけ]あり。猶[なほ]芝居の運動場[うんどうば]にて売る狂言尽しの花簪[はなかんざし]はその上の利あれど、これは狂言の当り不入[ふいり]によりて、大方ならぬ影響あり。最も割に当らぬは鹿子[かのこ]の手柄[てがら]歯磨[はみがき]お歯黒[はぐろ]等也。

▼運動場…劇場のロビー。
▼狂言の当り不入…劇場にかかってる演目の人気のあたりはずれ。
▼鹿子の手柄…鹿の子模様のついた布で、日本髪に巻いてつけるもの。
▲花簪根掛櫛笄

花簪[はなかんざし]は最も変遷の速かなるものにして、例へば桜の花簪なれば、問屋は開花の二ヶ月以前[まい]より売出し、開花期には全く売切る計画にて、職工をして製造方を急がしむ。東京の小売中にて此[この]品を最も数多く販売するは、浅草の仲見世[なかみせ]に越すものなく、人手多き時は日に五十円も売る店ありて、凡[す]べて此処[ここ]は市中とは別天地、普通より割合高きも顧客は承知づくにて求め行[ゆく]は、流石[さすが]に場所は争はれぬもの也。櫛[くし][かうがひ]はこれまで種々形状に変移ありしが今日[こんにち]にては殆[ほと]んど製造し尽したれば、自然[しぜん]旧を追ふ傾[かたぶき]となりて、以前程には変遷なし、羽二重[はぶたへ]の根掛[ねがけ]は其[その]模様に種々の意匠を凝[こら]すはいふまでもなけれど、多くはハンケチの切屑[きれくづ]を用ふるもの也。猶[なほ]流行以外にたてるものは珊瑚珠[さんごじゅ]にて、無地の櫛笄即[すなは]ち儀式用のものは、重[おも]に馬爪四方張卵甲等を用ひ、本鼈甲を用ふる者今は皆無の状態[ありさま]なり。

▼二ヶ月前…「まえ」が「まい」になってる点に注意。
▼自然…おのずから。
▼ハンケチ…ハンカチ。
▲花柳界向

には呉服屋の如く、小[すす]やかなる荷を脊負[せお]ひて廻る商人あり。上物[じゃうもの]偽物[いかもの]の別なく、手広く櫛[くし][かうがい]帯止[おびどめ][かんざし]指環[ゆびわ]根掛[ねがけ]等を販売し、又取引物も為[な]すなり、此者[このもの]の利益は又格別にして、平均五六割に当れど、その替り貸売[かしうり]が多く時に貸倒[かしだをれ]も免がれがたし、脊負小間物屋といへど上等品を売る者は一脊負[ひとせおひ]二三千円も持行[もちゆ]く商人ありて、何[いづ]れも流行に先立たんと心懸け居[を]る事変りなし。猶[なほ]花柳界向のみに限らず、凡[す]べて売残りとなりたる品、さては褪色したる物は、露店或[あるひ]は田舎廻りの商人へ捨売[すてうり]にするが例なれど、弥々[いよいよ]買手なき時は廃物[すたりもの]に帰する外[ほか]はなし。


▲職工の手間

花簪[はなかんざし]の製造は普通一日廿五銭位にて、稀に五十銭以上に及ぶものあり、上等品は例外なれど、下等品は少しく糊[のり]の付け方より、造花の技術を会得せば、何人[なんびと]にも出来る事とて、本職となりても手間は至って安きもの也。但し蒔絵師[まきゑ] 鼈甲師[べっこうし]となれば、日に一円以上五円位の手間に当れど、之[これ]は決して素人の望み得る処[ところ]にあらず、何[いづ]れも黒人[くろうと]として相応の資本が掛り居る事なり。

小間物を下ろす石あり夕涼み 許六

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▼造花…花かんざしの飾りにつける布などでつくられた花。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい