実業の栞(じつぎょうのしおり)料理店

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料理店

ここに云ふ料理店とは和料理[すなは]茶屋を指したるものにして、これにも自[おのづ]から二種の別あり、一は宴会などを主とするもの所謂[いはゆる]会席茶屋、一はほんの昼食[ちうじき]夕飯[ゆうはん]を認[したた]むる用に弁ずるものにして、浅草上野等の遊山場所[ゆさんばしょ]にはその数多く軒を並べたり。広小路の松田銀座の松田等その名あるものなり。会席としては都下名立[なだた]る家多く、旧家として聞[きこ]えたるは山谷[さんや]八百善[やほぜん]向島の八百松[やほまつ](水神のも)中奥[なかをく]の両植半[うへはん]柳橋の亀清[かめせい]深川の平清[ひらせい]などにて、何[いづ]れも旧幕の頃より全盛を極めたるものなり当今になりては芝の紅葉館[こうえうくわん]を始め、新橋其他[そのた]花柳[くわりう]の巷[ちまた]にこの種の大廈高楼[たいかかうらう]を見ざる事なし。

▼和料理…日本料理。
▼茶屋…料理茶屋。
▼遊山場所…さかりば。
▼名あるもの…有名なるもの。
▼旧幕…徳川時代。
▼当今…明治時代。
▼花柳の巷…花柳界。芸者さんゾーン。
▼大廈高楼…大きな造りの立派な店舗。
▲資本金

会席ならざる分はさまでの資本を要せざれど、元より目抜[めぬき]の場所を撰ぶ事とて、少なくも五六千円ぐらゐは入用なるべく、会席となりては資本の多部分其家[そのいへ]にかかれば、決して些少[させう]の金にては営み難く大広間を始め数寄[すき]を凝[こら]せし坐敷[ざしき]数多[あまた]を造るとなれば、それのみに八九千円は費[つい]へる訳にて、これは諸道具も多少念入[ねんいり]のもの入用なれば、可なりの店を造るとして差詰め一万円内外は要すべし。流通資本としては元より割よき商売とてさのみ多額は要せず。

▼目抜の場…商売上の好立地。
▼多部分…大部分。
▼数寄を凝せし坐敷…造作に凝った立派なお座敷。それぞれの調度品も専門の職人に造らせたりして、凝りに凝った造りの建物を工夫することも料理屋さんは競っていました。
▼念入のもの…凝ったもの。
▼さのみ…それほど。
▲利益

は所謂[いはゆる]飲食店一流の店にありては、殆[ほと]んど倍額以上に上[のぼ]る事珍らしからず。これ等[ら]は場所が場所ゆゑ客は通一遍[とほりいっぺん]のものなれば、安料理とてさして原料に心配もいらず、而[しか]も直段[ねだん]は相応に申受けらるるを以[もっ]てなり。さて会席となっては決して其割[そのわり]には行かず。何[いづ]れの店の名を惜[をし]むより、料理の原料方法などにも夫々[それぞれ]苦心する処[ところ]あれば、先[ま]づ平均一品二割五分乃至[ないし]三割位の利なりとぞ。


▲宴会と婚礼

近来益[ますま]す盛[さかん]なるは、宴会にて、何[なに]の会[くわい][それ]の会[くわい]と種々の催[もよほし]料理屋に持込む事になるがこれは元より極[きま]った会費の出合[だしあひ]ゆゑ、料理屋の方にては人数の割にさしたる利は見難けれど、中にて一番割よきは酒にて、宴会の儲[もうけ]の多部分はこれにて見らるるものなり。婚礼の料理は料理店の最も苦心する処にして、又原料をよく選べば割大きに悪きもの也[なり]。その故は並[なみ]の席と違ひ客も料理には多く箸をつけず、其侭[そのまま]家に持帰るより原料と調理[ほうてう]に充分の吟味をせねば、結局店の名折[なをれ]となる故これを引受たる時は中々[なかなか]心配なるものなりと。

▼利は見難けれど…利益は見込めないけど。
▼持帰る…婚礼がおひらきになったあと、折り詰めに入れてお持ち帰り。
▼調理…調理法。傍訓につかわれてる「ほうてう」は「庖丁」のことで、調理をさすことば。
▲繁忙なる時期

毎年十一月前後より翌年一月にかけたる三ヶ月最も忙しく、引続き三四の両月亦[また][にぎ]はしく、遊山場所なる分は此頃[このころ]が殆[ほと]んど一年中の書入時[かきいれどき]なり、さて夏季となりては自然閑散に成行[なりゆ]くものと知るべし。


▲雇人

料理方[れうりがた]を第一とし、其[その]給料多きは廿円[にじゅうえん]内外なるが、普通は十二三円乃至[ないし]十五六円なるが多し、次[つい]で重[おも]なるは座敷向[ざしきむき]の女中なるが、これの給金は唯[ただ]ほんの申訳に止[とど]まり、高々[たかだか]一円五十銭以上二円ぐらゐの規定なり。斯[かか]る処の規定として余り少なきやう考へらるれど、女中の目的[めあて]は一に客よりの祝儀にありて、全盛を極むる店となりては一月の如き書入時[かきいれどき]一人一ヶ月の貰ひ高[だか]優に七八十円に上[あが]ると云ふ。この料理方女中とも会席の方を記[しる]したるものなるが、普通遊山場所のになりては元より[かか]る例には行かず、其代[そのかは]女中の如き着物などに上物[じゃうもの]の要あらねば結局五分五分[ごぶごぶ]ならんも知れず。

▼料理方…調理人。
▼座敷向の女中…接客係。仲居さん。
▼祝儀…こころづけ。寸志。
▼斯る例には行かず…こうはいきません。
▼女中の如き…女中さんの場合は。
▲玉祝儀のハネ

会席となれば必ず芸妓[げいぎ]は付物[つきもの]にて、常々[つねづね]出入[でい]るものの玉祝儀[ぎょくしうぎ]のハネも、月両度の勘定に積[つも]っては決して僅かならず、これらは料理店の目に見えぬ儲[もうけ]にて、其他[そのた]客より帳場へ呉[く]るる祝儀も勘定外の収入なり。なほ利益多く店にて悦[よろこ]ばるるは、一人二人にてフリに来る客なりと知るべし。

洗ひ鯉[ごい]罪よと眉をひそめけり 千行

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▼芸妓…芸者さん。
▼月両度…月に二度。
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい