実業の栞(じつぎょうのしおり)西洋料理店

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西洋料理店

[この]営業はほんの近頃発達し来[きた]りしものにて、今より十五六年前は顧客[こかく]も僅かに一部の男子にのみ限られしが、近来めっきり気を持ち来たりて何処[いづこ]の店も常に客足絶えぬ状態[ありさま]とはなりぬ。上等店にて有名なるは、帝国ホテル上野の精養軒[せいやうけん]芝の三縁亭[さんえんてい]等にて、稍[やや][くだ]っては八州亭[はっしうてい]吾妻亭[あづまてい]宝亭[たからてい]芳梅亭[ほうばいてい]三河屋[みかはや]等あり、三橋亭[さんきゃうてい]は安いが特色にて、何[いづ]れも市中各所に支店数多[あまた]を有す。

▼顧客…お客さま。西洋料理は肉がつかわれているので、明治になってしばらくは女性はもちろん、一般の男性たちのあいだでも「けがらわしい」という意識がありましたヨウデス。
▲資本金

大規模の上等店は別とし、普通什器[じうき]装飾玉突台[たまつきだい]等の固定資本をも合せ、上[じゃう]五千円中三千円下[げ]千円以下二三百円という見当なり、但し玉突[たまつき]などは無し。

▼什器…食器。
▼玉突台…ビリヤード台。あそび用にこれが設置されてるお店がありました。
▲雇人の給料

は料理人即[すなは]ちコックを[さい]とし、上[じゃう]の部にて一箇月三十円内外、中[ちう]二十円より十五円下[げ]にて十円より七八円の見当なり。ボーイは客よりの祝儀あれば、割に給金は少額にて、上[じゃう]が月十円中[ちう]四五円という処なるが、近来は何処[いづこ]女ボーイを使ふこと流行す、女は月一二円にてよければ徳用向なるを以[もっ]てなり。出前持[でまへもち]は二三円位。

▼最…いちばん。
▼女ボーイ…女性の給仕さん。
▲繁忙の時期は

四月より十月までにて、十一月より翌年三月頃までは霜枯[しもがれ]と知るべし。


▲原料果物其他

[すべ]て西洋料理はスープの味にて上か中か判断するなり。仕出[しだし]多き家はコロッケは残品[ざんひん]にて製せられ、割よきは斯[かか]る類の品にて、スープ、ビフテキ、チキンロース等の生肉物[なまにくもの]は割わるく、ビフテキは上店にてロース若[もし]くはヒレを用ひ、安店[やすみせ]にてはラン及びイチボを原料とす。素人目[しろうとめ]には此方[このかた]上肉の如く見ゆれど、ロースの如く油なくして味大に悪[わる]し。スープは重[おも]にバラ及びスネにて取り、バラの好[よ]き処より取るは上店にて、安店にてはバラ肉より之[これ]を取り、揚肉[あげにく]もて他の品を製す。但しスープを取りたる二番肉にてソースを取るは常法なり。さて缶詰物は主として舶来品[はくらいひん]を用ふれども、野菜物は鶴見[つるみ]砂村[すなむら]等で造られたるもの、果物は北海道及び小笠原島産のもの、鶏肉は雛[ひな]のみを用ふるを例とし、夏場は鶏肉鶏卵の騰貴[とうき]にて困難なり。

▼残品…のこりもの。
▼上店…高級なる店舗。
▼安店…大衆向けの店舗。
▼上肉…上等なおにく。
▼揚肉…スープのだしを取ったあとのおにく。
▼舶来品…輸入物。
▼騰貴…値上がり。
▲来客出前立食

来客は割よき事[こと]勿論[もちろん]なるが、出前と来ては手数のかかる上[うえ]残品など出[いで]ねば極[ご]く割わるく、立食[りっしょく]は又大に割よく、猶[なほ]上中下と一定の直段[ねだん][きま]り居るものを通されるは利益少なく、お好み一品づつ通されるが割よきものなり。


▲露店料理

は下等社会の需[もとめ]に応ずる為、四五年来流行しそめたるものにて、両国広小路[ひろこうぢ]銀座[ぎんざ]辺の目抜[めぬき]の場所は、日々七八円の売上ありとは驚くべし。普通品一品五六銭より七八銭までの定価なれば、原料すべて次物[つぎもの]にて、肉の如きは何[いづ]れも鍋屋のものを用ひ、カツレツ、フライ等は料理塩梅[あんばい]さしたる違ひなけれど、シチウなどの汁物は肉少なに、スープを用ひずつゆのみ多く、馬鈴薯[じゃがいも]をこてこてとして胡麻化[ごまくわ]し置くなり。斯[か]く料理方違へば営業人は却[かへ]って素人の方[かた]よく、コック上[あが]りの黒人[くろびと]にては中々[なかなか]骨がをれる由[よし]、さて其[その]資本としては什器家台[やたい]等を入れ、二三十円もあれば充分なりとす。

花キャベツ麦酒[びいる]の泡に溢れけり 疎山

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▼目抜の場所…めぬきどおり。
▼次物…二流品。
▼鍋屋…牛肉料理屋。「牛肉屋」参照。
▼黒人…くろうと。
▼家台…屋台。露店の屋台。
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい