実業の栞(じつぎょうのしおり)牛肉屋

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牛肉屋

一口に牛肉屋と云へど其[その]種類多く、潰し問屋といふは生牛[いきうし]を撲殺して、小売もしくは切売屋へ販売するもの、小売即[すなは]ち鍋屋といふは店にて客に喰はしむるもの、切売屋は客の需[もとめ]に応じて切売し併[かね]て得意への配達も為[な]すものなり。其他[そのほか][はなは]だしきは大道見世[だいどうみせ]の煮込屋と呼ぶものも、又此[またこの]商業の一部に入[い]るべく、潰し問屋の中にて最も旧家と称するは、上物師[じゃうものし]にて神田淡路町の中川[なかがは]、安物師にて浅草千束町の米久[こめきう]なり、又鍋屋にては京橋南伝馬町の河合[かあひ]、日本橋小伝馬町の伊勢重[いせぢう]等、何[いづ]れも明治二三年の頃より引続き営業し来[きた]れるものとす。

▼大道見世…路上の露店。
▼明治二三年…1869-70年ごろ。
▲潰し問屋

僅か一頭の牛を潰す者も、又数十頭を屠殺する者も、同じく問屋の部類に入れど、問屋と名を付くるには、少なくとも一万円以上の資本は要すべし。されど問屋の中にも豊かなる者極めて少なく、多くは常に苦境に在るもののみなれば、此頃[このごろ]は荷主も万一を慮[おもんぱか]り、現金ならでは取引せずといふ、其[その]利益は普通五六分の処ながら、雑物[ぞうもつ]とて臓腑[ざうふ][かは][つの][ほね]等は之[これ]を買受[かひうく]る者が大なる問屋となれば一時に数千円も前金にて支払ふゆゑ、其[その]利子だけにても五分は確[たしか]にて、問屋の余徳はここにありとす。因[ちなみ]に記す、市内の撲殺場[ぼくさつぢゃう]は芝白金と浅草田圃の二箇所にて、白金は十中八九まで牛を取扱へども、浅草は馬が其[その]大部分を占む。

▼臓腑…内臓。
▼撲殺場…畜獣をお肉にする作業場。屠場。

▲鍋屋

即ち小売店にて、場所の好[よ]き処に家屋を搆[かま]へ、諸道具一式を取揃ふれば、資本は先[ま]づ一万円物なり。それ以下にても出来ざる事なけれど、日に三十なり四十番なりの客を迎ふる事は一寸[ちょっと]困難なりと知るべく、肉の仕入[しいれ]は現金と然[しか]らざるとに依りて品質に格別の相違あり、営業振は又中々[なかなか]懸引[かけひき]多く、総じて客人は三人なり四人なり一組を為[な]して来[きた]れる者に利益ありて、一人の客は好まざるものなり。その故[ゆゑ]は一人にては大方肉一人前に飯一人前を取[とる]が多く、(中には替りを取るもあけど、酒などは自然少なき割合なり)その場合いざ勘定[かんぢゃう]となれば結局茶と香の物は持出しとなり、殊[こと]に冬季などは炭代は全く損となる。之[これ]に反して二人以上の客には、第一炭は少し位余計にても其[その]損なく、肉も二人前の鍋は一人前のに比べて割合少なけれど、直段[ねだん]は倍ゆゑここに先[ま]づ利あり、其他[そのた]酒ビール等より種々の誂物[あつらへもの]も自然大ざっぱとなれば、勢ひ女中の扱ひも違ふと云った勘定なり。但し二人以上の連[つれ]にても婦人連[ふじんづれ]節倹[せっけん]なるより、矢張[やはり]鼻摘[はなつま]の中[うち]と知るべく、猶[なほ]近頃は米価昂騰[べいかこうとう]し居るより、上等品を出す店にては、一人前四銭の飯にては[やり]切れざる[よし]、さりとて[しな]を下[おと]す事も直段[ねだん]を上[あげ]る事も出来ず、ここ頭痛鉢巻[づつうはちまき]の体裁なり。

▼番…組。
▼替り…おかわり。
▼香の物…おつけもの。おこうこ。
▼炭代…お客さん用の手あぶり火鉢などに使う光熱費。
▼節倹…あんまり銭を使い過ぎない。おとこ同士の飲みくい騒ぎよりは確かに使いは少なさそうでアル。
▼鼻摘み…イイお客ではナイ。
▼米価昂騰…おこめの値段が天井知らずにあがってる。
▼遣切れざる…やりきれない。やってけない。
▼品…品質。
▼頭痛鉢巻…あたまがいたい。
▲切売屋

は鍋屋の如く家屋も要[い]らず女中の必要もなく、其替[そのかは]り肉切[にくきり]の職人と運搬車及[および]配達人を要し、此[この]配達人には歩合[ぶあひ]にて雇入[やとひい]るると月給との別あり、本郷春木町の三枝[さえぐさ]商店の如きは、府下切売屋中の王とも云[いふ]べく、売高[うれだか]平均日に二百円位ありとは驚くべし。されど利益は七八分位が関の山なり。

▼府下…東京で。
▼関の山…限度。
▲煮込店

となれば家屋は別とし、資本は五十円にても百円にても出来るものにて、数年前迄[まで]此の業の多くは市中の鍋屋と特約し、客の喰残[くひのこ]せし汁及[および]肉を購[あがな]ひ来[きた]そを販売せしものなりき。されど今はこれも極[ごく]の小店に限られ、大方は切出し若[もし]くは臓腑中の○袋等を買出して煮込とす。利益も三四割以上ありと云ふ。

牛鍋や薬喰[くすりぐ]ひとは昔にて 安庫

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▼そを…それを。

校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい