実業の栞(じつぎょうのしおり)焼鳥屋

凡例
目次

もどる

焼鳥屋

夕景神田明神下[かんだみゃうじんした][もし]くは美倉橋[みくらばし]通りより各所の縁日等には有触[ありふ]れたる露店ながら、下流の人ならでは目に止まらざる商人なり。

▼夕景…ゆうがた。
▲焼鳥の嚆矢とも

云ふべきは詳細に知る能[あたは]ざれど、今も神田の仲町に住して之[これ]を業とするガラ万と呼ぶ髷爺[ちょんまげおやぢ]なり、祖父の代より同人に至って三代此業に従事せりと云へば、先[ま]づガラ万をもて嚆矢[かうし]と見るべく、万世橋[よろづよばし]付近の各焼鳥店は、皆[みな][この]老爺[おやぢ]より拡まりしものなるべし。

▼嚆矢…はじまり。
▼万世橋…後によみかたがかえられて「まんせいばし」になりました。
▲営業時間と客の種類

営業時間は夕暮より夜の十二時頃迄を通例とすれど、ガラ万の如きは昼間より店を出[いだ]し、夜に入[い]りては僅[わづか]一二時間にて店を仕舞ふ、客の種類は仰々しく云ふまでもなく、根が賎業なれば、重[おも]河岸[かし]に居る立ん坊[たちんぼう]又は軽子[かるこ]追掛[おっかけ]の車夫等が常客の部にて、少し上になりては商家の丁稚[でっち]が使[つかひ]の往復に二串か三串を求むる位なり。されど稀[まれ]には前垂掛[まへだれがけ]手代[てだい]もあり、昼間は外見[みえ]を憚[はばか]りて、書生又は小役人等の立寄るを見ざれど、夜に入れば明神下等は此等[これら]の輩[やから]が三々五々[さんさんごご]此店[このみせ]に首突込[くびつっこ]む事[こと][しきり]なり。

▼賎業…お上品客向きではありませんでした。(値段も安かったので)
▼河岸…市場。
▼手代…小僧さんの上、番頭さんの下。
▲直段と風味

価格は胆[きも]が一串五厘、腸[はらわた]も同様にして骨の叩きしは僅[わづか]三串にて一銭の定めなるが総じて此[この]焼鳥は骨[ほね][あるひ]は臓物[ぞうもの]までを駄醤油にて焼くより、到底普通の人の口に入るべならねど、真[しん]鳥好[とりずき]は鶏肉店に至りてすらも、殊更[ことさら]臓物沢山[たくさん]と註文する位なれば、下品ながら斯[かか]る人の嗜好には適せり、されば態々[わざわざ]露店より数串を求め、自宅にて上醤油もて焼[やか]しむる連中もありとぞ。但[ただ]しガラ万の如きは、常に上等の品物を撰[えら]み、骨等も新鮮の物のみなれど、下等の店に至りては、牛の切出[きりだし]馬肉の下等物さては狗肉[いぬにく]を交[ま]ずるもあり。殊[こと]に腐敗に及びたる品を湯引[ゆびき]して売出すが多しとか。

▼骨の叩きし…軟骨などを叩いてつぶしたもの。
▼駄醤油…粗製のお醤油。豆以外のものが材料のときも。
▼鳥好…鳥肉マニア。
▼上醤油…高級上等なお醤油。
▼湯引…とりあえずの熱湯消毒。
▲仕入と資本

は先[ま]づ屋台より焼火鉢[やきひばち]、大皿二枚、大傘、鰻笊[うなぎざる]、竹の小串、汁入[しるいれ]の瓶[かめ]より一切取揃へて十五円以上二十円もあれば充分なり。客の大方は立ん坊軽子等を相手なれば、さして奇麗にする必要なく、何[いづ]れも古道具屋より破損物を求め来[きた]り繕[つくろ]ひて間に合すを常とすれど、仕込[しこみ]は鳥の胸殻[どうがら]を買出す軍鶏屋[しゃもや]なり切売屋[きりうりや]なり料理店なりを手に入れ置く必要あり、売り呉[く]れる家なければ種が出来ず、有名の軍鶏屋にてそれぞれ売付[うりつけ]の者ありて、其者[そのもの]ならねば直段[ねだん]がよくとも決して売らざれば、之[これ]を買取る迄になすが中々[なかなか]大骨折[おほほねをれ]なり。それ有名の鳥屋ならねば胴殻[どうがら]多分に出ず、多分ならざれば商売少なく、数を多く売[うら]ずば儲[まうけ]も少なき道理とて、斯道[しどう]の商人は皆[みな]此策[このさく]に辛苦する也。胴殻の直段一箇約三銭位は冬季より春季に掛けてなれど、夏季は売口悪[あ]しく焼鳥屋も進んで買はざるより下落すると知るべし。ガラ万の如きになりては有名なる家は常に同人の買出先にて直段も一年平均を以[もっ]て買ひ取るより、品も新鮮なるが手に入る訳なり。

▼破損物…きず物。
▼多分…大量。
▼斯道…この道。
▼此策…いかにたくさんの鶏肉の肉以外の部分を鶏料理屋から買い取れるか。
▼顔…有名店。
▲その利益

は殆[ほと]んど資本[もと]の倍にて一日一円の商売ありと仮定せば、実費差引五十銭は利益なり。されど一ヶ月の内雨天五日と見積るは露店商人の定めなれば、日に二円平均売れば二十五円となる勘定なれど、商家の担先[のきさき]を借りても相当の付届[つけとどけ]を要するは勿論[もちろん]ゆゑ、夫等[それら]を差引き二十円の純益あるべく、これ等は元より売口好き処を記したるにて、猶[なほ]場所により五円位は売上る商人ありと云へるが、左[さ]りとは驚くべき至りならずや。

焼鳥の匂ひ昏[く]るるや辻柳[つぢやなぎ] 疎山

つぎへ


校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい