実業の栞(じつぎょうのしおり)乾物商

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乾物商

市内に於[おい]て乾物問屋と称するは現今廿二軒あり、最も旧家として知られたるは、神田区連雀町[れんじゃくちゃう]小田原屋[こと]小栗兆兵衛[をぐりてうべゑ]を第一とし、続いて同区鎌倉町伊丹屋[こと]鈴木善助[すずきぜんすけ]なり。此程[このほど]或好事家の許[もと]にて、文化文政頃問屋行事より出版せし番付を一覧せしに、江戸市中にて僅[わづか]十五軒の連名なるが、此内[このうち]現存するは前記の小田原屋と伊丹屋の二軒なりとす。

▼市内…東京市内。
▼文化文政頃…1804-1830年のころ。この文が書かれたころからちょうど90〜80年くらい前のむかし。
▼問屋行事…組合の役員。
▲資本

問屋と云ふ看板を掲[かか]ぐるには、少なくも五六万円の資力なくては出来ず。第一荷物を貯蔵する倉庫を、二間[けん]に三間[けん]の土蔵と見て、三棟位所有せざれば、置場に不足を告ぐる次第ながら、問屋廿二軒の内にても、僅[わづか]五千円か一万円位の資金を以て、絹糸渡[きぬいとわた]の危険を冒せる問屋も数多く、数万の資本を以て営業するは数軒に過ぎず。

▼絹糸渡り…絹の糸の上を渡る芸。綱渡りよりけんのんけんのん。
▲取引高

は問屋によりて一定せざれど、中等の問屋にて一ヶ月約一万円位あり、斯[かく]て荷主の取引は、荷為換[にがはせ]或は親金[おやがね]と称し、一万円の荷なれば九千円迄仕切りを受けて、其[その]荷物へ指直[さしね]をなし、其価[そのあたひ]以下にては問屋へ売るを許さず、品物の昂騰[かうとう]するを見れば、直[ただち]に出京[しゅつきゃう]し来[きた]りて仕切を受くるなり。其[その]最も狡智に長ずるは、椎茸[しゐたけ]等の荷を扱ふ静岡地方の荷主にて、大[おほい]に問屋の苦しむ処なりとぞ。猶[なほ][この]商売には仲買と云へるはなし。

▼昂騰…急激な値上がり。
▼狡智…ずるがしこい。
▲繁忙なる時期

十、十一、十二、一月の四ヶ月が好況を呈し、余は盆前後少しく頻繁を極むるも、概して半ヶ年は閑散なるもの也。又問屋によりて取引の地方に区別あれど、東海道は重[おも]に大坂と取引し、東京[とうけい]とは余り取引なく、房総及[および]東北地方は東京[とうけい]の問屋と取引する重[おも]なるものなり。

▼盆前後…お盆の前後。ご進物などの用途に使われる商品が多いため、この時季に売り上げがのびるようです。
▼東京…「とうけい」の読みに注意。
▲利益

荷主に仕切金を渡す時、古来よりの習慣により五分の口銭[こうせん]を差引くが規定なれど、其[その]時期により五分の口銭に当らず二分位よりなき事もしくは皆無なる事あり。卸しの利益は平均五六分位の薄利[うすり]なれば、十数人の店員を使役して営業すれば、漸く公債[こうさい]位の利益に過ぎずとぞ。

▼薄利…「うすり」と傍訓がありますが、後で「はくり」とも振られているので誤植であるやも知れません。
▲入梅の困難

毎年入梅[にふばい]となれば問屋の困難大方ならず、椎茸[しゐたけ]等には黴[かび]生じて其侭[そのまま]に販売出来ざれば、晴天を待って日光に曝[さら]し黴を払ふなど、其[その]手間一通りならず、従って品物も痛[いたみ]を生じ、大[おほい]に苦境に陥[おちい]る者なり。

▼入梅…梅雨の季節に入ること。
▲料理店向の問屋

は僅かに日本橋区室町[むろまち](里俗半町)の山形屋利七一軒にて、普通の問屋わり利益多けれど、勘定は月末[つきすゑ]ならでは受取れず、元延勘定[もとのべかんぢゃう]なれば幾分かの金利見積りある替[かは]り、料理人には何分かのコンミッションあり、勝栗[かちぐり]にても虫の付[つき]たるは削取[けづりと]るなど、夫[そ]れ夫[ぞ]れ品によりて手数大方ならず、僅[わづか]一升の栗にても先方へ届ける手間もあれば、利益は多けれど貸倒[かしだふれ]をも平均して普通の問屋と利益に大差なかるべし。


▲小売商

となりては乾物のみ販売するは稀[まれ]にて多くは雑穀等を合[あは]せ商[あきな]ひ、又八百屋を兼業するもあり。何[いづ]れにもあれ二間[けん]位の間口にて、一式の要具を揃へ、従業者(小僧一人若衆[わかいしゅ]一人)二人も使役して開業するとせば、少なくも四五百円の資本は要すべし。さて此[この]業に[いま]だ実験なき素人にて、大約五六十種の荷を問屋より仕入すれば百五六十円位は入[い]るべけれど、嘗[かつ]て何[いづ]れかの問屋に雇はれし者が初める場合には、問屋より品を送り貰ひ、所謂[いはゆる]売上勘定[うりあげかんぢゃう]にても問屋が聞済[ききす]みくれるより、仕入金は別に要せざる訳なり。惣じて飾樽[かざりだる]等へ品物を充分に入れ、其上[そのうへ]半台にも盛る事とせば、多分の仕入金を要すれど、飾樽を空虚[から]にし、半台計[ばか]りに盛り置けば、百円未満にても出来ざるにあらず。

▼未だ実験なき…未体験の。
▼飾樽…店に品物を陳列するための樽。
▼半台…品物を陳列するためのもの。
▲利益

元より数十種ある品物なれば、品によりて種々の相違あれど、平均一割五分以上二割の利あり。最も儲ある売物は、白玉粉[しらたまこ]、素麺[そうめん]盆配りボール箱入進物にて、二斤入と称する白玉粉も、実際一斤半より箱には入居[いりを]らず、甚[はなはだ]しきは粗悪の品を入れて、甘[うま]く顧客を瞞着[まんちゃく]する者さへありとぞ。

▼盆配り…お盆のご進物にすること。
▼ボール箱入進物…のちに百貨店などであつかわれだす、お中元やお歳暮の包みと大体似たりよったりなものです。
▼瞞着…だます。
▲繁忙なる時期

盆の前後が最も商高[あきなひだか]多く、雛祭[ひなまつり]の時には豆煎[まめいり]の菓子種[かしだね]、五目鮓[ごもくずし]の原料なる椎茸[しゐたけ]、干瓢[かんぺう]等の売行盛[うれゆきさかん]にて、盆にも劣らぬ忙[せは]しさを見るなり。猶[なほ]小売商の一徳は問屋と異なり、相場の変動ありても利害に関せず、何時[いつ]でも仕入し時の相場を以て売り行かるる事にて、常に売口よきは大豆、小豆、干瓢、椎茸等にして、利益ある品は数が捌[さば]けず、升数[ますかず]の売れる品は薄利[はくり]なりといふ。

▼繁忙なる時期…二度目の登場。
▼一徳…一得。ひとつのいいところ。
▲問屋との取引

の内[うち]支払は概して現金なれど、問屋に信用ある小売商となれば、月末に百円の仕払ある処も懐勘定[ふところかんぢゃう][あ]しき時は、五十円も入金して猶予し貰ふ事あり。されど新規に素人が始めては、月末払も問屋にて聞[きか]ぬものなり。猶[なほ]素人にても此[この]商売はさして至難の事にあらず、実験なき人は、問屋の番頭に品の捌[さばけ]よきを見繕[みつくろ]ひ貰ひ仕入する方[かた]宜しく、黒人[くろと]と共に直段[ねだん]に高下は付けぬものなりとぞ。

山雀[やまがら]や南向[みなみむき]なる乾物屋 疎山

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校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい