実業の栞(じつぎょうのしおり)洋服商

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洋服裁縫店

新しき商業中洋服店程長足[ちゃうそく]の進歩をなしたるものなく、現今此業[このげふ]に従事するもの、問屋、裂売問屋[きれうりとんや]、裁縫店等組合に加盟せる数は、殆[ほとん]ど五千名に及べり。偖[さて]問屋は別とし、裁縫店の内維新前より此業に従事し、今猶[いまなほ]継続し居る旧家は、本石町[ほんこくちゃう]河村[かはむら]、銀座の大民[だいたみ]、神田鍛冶町の尾張屋、当時の新川洋服店(森村市左衛門翁の番頭)等にて、裂売問屋[きれうりどんや]は本町の高橋、神田須田町の上総屋等尤[もっと]も老舗[しにせ]なり。

▼長足の進歩…おおきな発達。
▼維新前…明治以前から。
▲問屋裂売問屋の区別

問屋は横浜の商館と直接の取引をなし、海外の品を輸入するはいふまでもなく、裂売問屋は更に其[その]問屋より洋織物を取引し、見本帳を製して、之[これ]を小売店則[すなは]ち市内各裁縫店に配りて註文を取る。之[これ]を受[うけ]たる裁縫店は自家の見本と、此[この]新輸入の見本帳を持[もっ]て得意先を順回し、註文あれば之[これ]に入用[いりよう]なるだけ、何碼[なにやーど]なりとも裂売問屋より買求めて裁縫す。

▼横浜の商館…開港以後、輸出輸入の取引をしていた外国人たちの会社をさしていた言葉。ここに勤めている外国人のためのにはじめられた洋服、食肉、洗濯などの商売が、西洋風の職業が日本で発達していったはじまりでした。
▼何碼…生地の長さ単位はヤードで計られていたようです。
▲資本金

問屋となりては十数万も投ぜざれば営業出来ず、裂売問屋にても四五万円も投ぜざれば問屋とは云ひがたし。裁縫店に至りては資本の上に大なる相違あり、一万円の資本を以て営業する者もあれば、七八千円のものもあり、下っては千円にても又僅かに百円にても店を張行かる。斯く其[その]金額に相違あるは、店の組織を異[こと]にするものにて大なるは、自店に店相当の洋織物を陳列し置き急速の場合には自店の品物もて註文に応ずる仕組とし、所謂[いはゆる]問屋商人の側なり。小なるものに至りては、元より裂地[きれぢ]の積みあるにも非ず、裂売問屋の見本を以て註文に応じ、例へば脊広[せびろ]一着を受合へば、問屋より裂地を必要だけ購求し、裁縫して客より代価を受取り、斯くして問屋へ地質の代価を仕払ふより、小資本にてなすを得るなり。

▼地質…裂地。
▲利益

礼服が此業の最も利益あるものなれば、礼服と一概に云ても、大礼服と燕尾服とは其[その]利益同じからず。大礼服尤[もっと]も利益ありて、約二割以上二割五分位の処あり。平常着の脊広[せびろ]は地質裁縫の仕方等によりて相違あれど、約一割より一割二三分位の利あり、尤[もっと]も中には五分位より利益なきもありて、二重外套[にぢうがいたう]吾妻[あづま]コート等は数は出来れど、贅沢品ならでは客も金を出さず、従って薄利なりと知るべし。さて自店の品物のみにて注文に応ずるを得るは市内にて白木屋銀座の大民[だいたみ]等の数軒に過ぎず、[よ]大方[おほかた]問屋当[あて]にて業務を執るなり。

▼礼服…政府がさだめた大礼服などの公式な洋服。儀式や式典には必ずこちらをご着用。
▼二重外套…男性用のコート。
▼吾妻コート…女性用のコート。着物の上に羽織って着るもの。
▼余は…そのほかは。
▲繁忙なる期節

は何[いづ]れも移り替[かはり]の頃なれど、春季は四月より五月頃までにて其[その]期間少なきは和服と相違し、一足飛[いっそくとび]に冬衣[ふゆい]より夏衣[なつい]に移るが故なり。夏季は洋服の兎角[とかく]暑苦しきより至って暇[ひま]にて、冬季は十月より翌二月の五箇月に渉[わた]り、最も繁忙を極むるは十二月なり。此際[このさい]には職工も大方[おほかた]徹夜して裁縫するを常とす。


▲商売は貸売

が多く、以前は客より月賦払[げっぷばらひ]の事[こと]相談する処ありしものなれど、今は客も商人も月賦と云[いふ]が普通の習慣となり、客も最初に断はらず、商人も月末に悉皆[しっかい]の仕払書出[かきだ]しを持行けど、何[いづ]れも月賦にて満足し、普通三ヶ月払の者多く、現金と云ふは皆無の姿なり。

▼月賦払…月々に分割して支払をすること。
▼悉皆…すべて。
▼現金…その場での全額現金支払。
▲御用商人

は官省等の入札落札すれば期日二日前位に納品して検査を受け、よろしとなれば仕払日に無事勘定を得れど、地方にては中に六十日間位仕払日の延ぶる処もあり、都下にては其様[そのやう]の処なく、甘[うま]く行けば月二回も仕払を受くるより、大[おほひ]に融通になるものなり。されど係の○○へのコンミッションは例の如く免[まぬが]れ難し。


▲店の陳列品

は流行[りうかう]の柄[がら]と流行[はやり]すたりなき物と宜敷[よろしく]配合して装飾するが肝腎[かんじん]なり。元来流行の縞柄[しまがら]又は色気物[いろけもの]は、変遷の甚[いた]く速[すみやか]なるものなれどこれ等[ら]を並列せざれば客の嗜好に投ぜざるより、其柄[そのがら]は二三を置き、流行すたりなき物を多く陳列しあり。

▼色気物…色彩、色調。
▲仲間の競市

以前は此[この]市に持行くべき品を、非常に秘密にして店員にも知[しら]さず、覆[おひ]の中に堅く包みて市の当日迄見せしめず。競うて珍奇の柄物[がらもの]を出[いだ]し、直段[ねだん]の高きを貴[たっと]びしが、今は大[おほひ]に反対となり、流行せざる縞柄[しまがら][もし]くは店にて売ざる持余し物を、原価以内にて損をしても売り放つやうの有様とて、買手も安く直段付[ねだんづけ]して、吾[わ]れ勝に直段の安き物を買ふやうになれり。


▲裁縫の困難

裁縫も流行の変遷甚だしく、両前[りょうまへ]が流行するかと思へば一行釦[いちぎゃうぼたん]が流行し、ズボンも太きかと思へば忽[たちま]ち細くなる具合なれば、営業者は常に各国の流行をよく詮索して、時好に遅れざるやう夫[そ]れ夫[ぞ]れ裁縫職に指示するの要あり。猶[なほ]凝手[こりて]に至りては今巴里[ぱりー]にて或形[あるかた]が流行すると聞けば、直[ただち]に裁縫店に面倒なる注文に来[きた]るもありて、其[その]辛苦一方[ひとかた]ならずとぞ。さて春季流行する薄羅紗[うすらしゃ]製の服は、謂[い]はば和服の袷[あはせ]にて、粋士[すゐし]の贅沢に限られたれば、註文はさして多からず。

新柄の脊広うれしき春着かな 疎山

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▼時好…お客のこのみ。
▼凝手…こまかい箇所にも色々と凝るお客様。
▼巴里…フランスのパリ。『安愚楽鍋』(1871)にも「仏蘭西の着倒れ」という文字が出来ていて今も昔も服飾の都。
▼粋士…通人。おしゃれなお客。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい