実業の栞(じつぎょうのしおり)絵草紙商

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絵草紙商

東錦絵[あづまにしきゑ]は一に又江戸絵[えどゑ]と称し、江戸時代より田舎への土産物としていたく持囃[もてはや]されたるものなるが其[その]起源は至って古く、遠く延宝[えんぽう]天和[てんな]の頃に始りぬと云へば、今より殆[ほと]んど二百余年以前の事なり。斯[かく]元禄年間に有名なる菱川師宣[ひしかはもろのぶ][いで]て一枚摺[いちまいずり]丹絵[たんゑ]を創[はじ]め、享保年間奥村政信[おくむらまさのぶ]紅絵[べにゑ]を出[いだ]し、下って明和の初め鈴木春信[すずきはるのぶ]紅絵より更に進んで始めて錦絵なるものを作りしより、大[おほい]に時好に叶ひ何時[いつし]か江戸名物の一に数へらるるに至りぬ。其後[そののち]文化文政の頃に及んでは、菊川英山[きくかはえいざん]北川歌麿[きたがはうたまろ]池田英泉[いけだえいせん]柳川重信[やながはしげのぶ]鳥居清信[とりゐきよのぶ]歌川豊春[うたがはとよはる]同豊国[とよくに]国芳[くによし]一立斎広重[いちりうさいひろしげ]などの名手続々輩出して全盛を極めたるは何人も知る所なるべし。さるにてもここに可笑[をかし]きは此品[このしな]を売捌く商家を絵双紙屋[ゑざうしや]と云ふ事にて、錦絵屋とでも云[いへ]ば事足るべきを、今以てさは称せざる故[ゆゑ]如何[いかに]といふに、こは全く旧時の名の残れるにて、そのかみ[この]版元といふは、何[いづ]れも当時の小説即ち草双紙[くさざうし]をも合せて刊行したるより、さてこそ絵草紙屋の名の起れるものなるを、星移り物変れる今日、小説刊行と錦絵出版とは全く分業になれるにも関らず、不思議にも其[その]名称だけは旧時の面影を残せるなり。

▼田舎への土産物…武士や商人など、江戸へ出て来たひとが国もとに戻るときの土産物として需要がありました。選ばれた理由の一つには江戸でしか多種生産されていなかったことと、もう一つはかさばらず軽量なところで、この点は同じく江戸の土産物として需要が高かった浅草海苔と共通しています。
▼延宝天和…延宝(1673-1681)天和(1681-1684)上様で申せば綱吉の時代。
▼元禄年間…1688-1704。
▼菱川師宣…浮世絵師(?-1694)印刷された浮世絵の画家としては最も古い部類。
▼丹絵…墨一色で印刷されたものの上に丹(赤い絵の具)で彩色をしたもの。
▼享保年間…1716-1735。
▼奥村政信…浮世絵師、版元(1686-1764)
▼紅絵…墨一色で印刷されたものの上に紅(赤い絵の具)などで彩色をしたもの。
▼明和…1764-1771。
▼鈴木春信…浮世絵師(1725?-1770)はじめは絵暦の絵を描いていましたが、この絵暦の印刷に多色刷りの技術が導入されて、錦絵へと発達していきました。
▼文化文政…文化(1804-1818)文政(1818-1830)
▼北川歌麿…北川は喜多川。
▼旧時の名…むかしのよび名。
▼そのかみ…むかしむかし。
▲問屋と小売店

都下の所謂[いはゆる]絵草紙商は百廿余軒ありと云ふが、勿論これは問屋小売を通じての計算にして、問屋といふは其[その]出版元たる事いふまでも無し、其名[そのな]さへ矢張[やはり]旧称の地本錦絵問屋[ぢほんにしきゑとんや]と云ひ居れり。問屋中手広く業を為[な]し居るは日本橋人形町の具足屋[ぐそくや]室町の滑稽堂[こっけいだう]馬喰町の辻亀[つじかめ]、其他[そのた]辻文[つじぶん]大平[たいへい]などと云へるも何[いづ]れも聞[きこ]えたる店なり。さて小売店は是等[これら]出版元より出づるものを売捌くをもて業とせるが、今では昔時の如き売行なきより、余程よき場所ならぬ限りは大抵雑誌類と兼業の姿なれば、これにさしたる大資本を投ずる者稀にて僅[わづか]に二三百円も出せば相応の店は飾らるるものなり。

▼地本錦絵問屋…地本問屋は絵草紙や錦絵を出版販売していた店で、これに対して一般の本を出していたのは書物問屋。
▲仕込と売上

品物の仕込に付ては自ら決して版元に出向くの要なく、居ながら、仕込は出来得るなり。即ち版元の下には例の才取[さいとり]といふ者ありて僅の口銭[こうせん]にて日毎に各所の小売店を廻る事ゆゑ、その直段[ねだん]さへ甘[うま]く談判せば、商売は女子供のみにても容易[たやす]く出来得るなり。さて其[その]直段[ねだん]は例へば二十銭売[うり]するものならば、六掛[かけ]もしくは七掛[かけ]にて卸し行くを普通とすれば、小売店の純益は二十銭に付[つき]六七銭を見る事を得、頗[すこぶ]る割よきものなれども、昔時と違ひ今ではさまでの売行なければ、これにて蔵の立[たつ]るなどは少々夢のやうな話なるべし。


▲店曝しの絵と捌口

[さて]も新版物の出版されたる時は、何[いづ]れも看板として之[これ]を店頭に飾る事なるがこれ等[ら]の品は何時[いつし]か色変りて売物とならざるに至るものにて、之[これ]を各小売店に通ずれば決して少からざる損失のやうに思はるれど、それには又一種の捌口[はけぐち]あり以前は二もなく田舎向[いなかむき]として送出したるものなれど、何がさて色褪[いろざめ]たる古錦絵は東京名物たる東錦絵の名を汚す事多く、又田舎の年々に進歩するにつれ、追々販路も狭まるより、今は他に一法を考へ、件[くだん]の品を其侭[そのまま]に活用する事と成[なれ]り。其[そ]を何ぞと云[いふ]に所謂[いはゆる]縮緬絵[ちりめんゑ]と称する揉絵[もみゑ]と為[な]す事にて、斯[かく]せば絵具なども塗返すの要なく、古びたる物其侭[そのまま]新しき物にせられ、更に得意を海外に造る事を得るものにて、米国又は上海香港辺へ輸出をなす縮緬絵は、全くこの廃物利用の品物なりとす。

▼縮緬絵…錦絵を一定の巻き方でもみ込んで、表にちりめんのような皺をつける加工を施したもの。クレポン。
▲錦絵と石版絵

江戸時代にありては錦絵の得意も単に小児[こども]のみならず、役者絵などに至[いたり]ては西丸をはじめ諸家の奥女中どもが争うて之[これ]を求めたるものなれば、大[おほい]に盛況を極め従って立派なる物も出版せられたるが、明治になりては芝居道も昔時の如くならず、一方には似顔絵に勝る写真もあり進んでは写真版などといふ軽便主義の物さえ出来れば、東錦絵の中堅たる似顔絵もいたく衰ふる事とはなりぬ。然[しか]のみならず他方には石版絵の流行日を追うて盛[さかん]なれば、第一流の浮世絵師はこれと肩を並ぶるを恥[は]ぢ、容易に版元の需[もとめ]に応ぜねば益[ますま]す出色の錦絵は見る事難くなりぬるこそ口惜けれ。已[すで]に斯[かか]る悲況にありて猶且[なほかつ]問屋のさして驚かざるは、彼[か]の団扇製造をもて多くの利益を占[しめ]居るに因[よれ]り。団扇の事は別にその項に述[のべ]あるを以てここに略せり。

青柳や一枚絵にも出た娘 万字

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▼錦絵の得意…明治に入って以後、子供向けの絵草紙や錦絵がさらに数を増していったのには、武家屋敷のお客が減ったのと、武家などに多かった絵草紙の彫師がいなくなってしまった事に原因があります。
▼西丸…大奥。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい