実業の栞(じつぎょうのしおり)漆器商

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漆器商

漆器は我邦[わがくに]美術品の一なるが、市中此[この]業者極めて多きが中[うち]に、殊[こと]に名高きは日本橋室町の木屋商店なり、同店は卸[おろし]と小売とを兼ね居るより、市内小資本の同業者は何[いづ]れも同店より仕入[しいれ][きた]るものなるが、稍[やや]規模の大なる処となりては、地方の各産地と直取引[ぢかとりひき]を為[な]し居るなり。

▲資本金

何しろ美術品の事とて金高[きんだか]ゆゑ、問屋小売とも些少[させう]の資本にては融通困難にて、先[ま]づ問屋としては極[ご]く少額にても三万円位は要すべく、小売商として見場[みば]よく店の飾らるるは、少くも二三千円の資本を投ぜざれば叶はず。

▼金高…値段がたかい。
▲利益

は通じて二割の上に出[いで]ず。尤[もっと]も小売商の店にては、五十銭以下の品物は割よく三割ぐらゐに当るもあれど、一円以上の稍[やや]上等品と見らるるものに至りては、僅か五銭位を直引[ねびき]されても、甚[いた]く響きを感ずるより、平均して二割の利は蓋[けだ]し動かぬ処なるべし。


▲繁忙時期

は三四月より、秋口九月より十二月までを目抜[めぬき]とす、而[しかう]して普通の店にて一般に売口よきは日用品にて、膳、椀、弁当、箸箱、盆等が絶[たえ]ず捌行[はけゆ]くものなり。

▼目抜…おおいそがしな時期。
▲品物のいたみ

は冬季空風[からかぜ]の吹く頃に甚しく、塗物はさしたる事なけれど(これには一々[いちいち]紙にて包み置く故[ゆゑ]なり)鏡台[きゃうだい]煙草盆[たばこぼん]など比較的木地[きぢ]を見せたる品は、何[いづ]れも割目[われめ]などを生じて困るものなり。

▼空風…湿気の少ない乾燥した北風。
▼木地…木の表面。
▲漆器の産地

各地に銘々特色ありて、先[まづ]会津は蒔絵[まきゑ]を得意とし、加賀は椀[わん]弁当[べんたう]菓子器[かしき]紀州は膳[ぜん][わん]、静岡は鏡台[きゃうだい]重箱[ぢうばこ]針箱[はりばこ]等に名あり。各品の取引は皆その標準にて為[な]すものなりとぞ。

紅梅や鏡のやうなぬり枕 万字

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▼菓子器…お菓子などを入れる鉢状の容器。
▼紀州…紀伊の国。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい