実業の栞(じつぎょうのしおり)肥料商

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肥料商

肥料と云へば昔は唯[ただ]人間牛馬の糞尿に些少[させう]の藁灰[わらばい]などを交[まじへ]て使ひ、殆[ほと]んど此[この]一方法のみ依頼して収穫を待居たるものなるが、世の進歩は何時[いつ]まで斯[かか]姑息固陋[こそくころう]の事を許さず、旧来の物にいや増[まし]たる人造物にて、種々雑多の肥料が製造せらるる事となりたるより、ここに始めてそを売捌[うりさば]く商人の必要を感じ、早くも肥料商といふ一の目新しき営業は生[うま]れ出[いで]ぬ。目下百万円の大会社として肥料商中の牛耳を執[とれ]東京人造肥料会社は、我が人造肥料の始祖にして、全国随一の盛況を極[きは]め居[を]れるが数ふれば已[すで]に廿余年前明治十七年に創立せられし当時は、僅[わづか]に十五万円の小資本にして、いざ業務開始といふ暁[あかつき]には、全国の農家誰あって其[その]有効なる製造肥料を求むる者なく、会社の見込[みこみ]は全く違ひければ、製造方主任[せいざうかたしゅにん]なりし今の工学博士高峰譲吉[たかみねじゃうきち]氏は、片時[へんじ]も勘[たま]らず草鞋[わらぢ]がけの姿軽々[かるがる]と、全国に其[その]効用を説廻[ときまはっ]たれども、矢張[やはり]農家の九分まではそを冷笑の裡[うち]に葬りたれば、遂に会社は初年が丸損[まるぞん]、二年目も収支相償[あいつぐの]はず、三年目より些少ながらの利を見得[みう]るやうに成[なり]きと云へるがそれが、今日[こんにち]の盛況とは時勢の変移[ただ]驚くの外[ほか]はなし。

▼姑息固陋…進歩のない。
▼いや増たる…レベルのあがった。
▼人造物…人工のもの。
▼明治十七年…1884年。しかし、実際は明治二十年(1887)の設立のようです。
▼高峰譲吉…科学者、実業家(1854-1922)イギリス、アメリカなどに留学の後、東京人造肥料会社を設立(のちの日産化学工業株式会社)「タカジアスターゼ」の発明や「アドレナリン」の抽出の功績でも有名なハカセ。
▼九分…90パーセント。
▼そを…それを
▼時勢の変移…時代のうつりかわり。
▲資本と利益

此業[このげふ]の得意先は広き全国の農家なれば、之[これ]が需要に応ぜんには、勢ひ大資本もて取計[とりかか]るべく、従って其[その]商店の多部分は会社組織にして、製造販売を一手に為[な]し居[を]れば、如何[いか]なる大註文にも応ずるを得[う]べし。されば此業[このげふ]の一箇人[いちこじん]営業なるは極めて少なし、神田須田町の十文字商会[じゅうもんじしゃうくわい]の如き有名なる店も、肥料は其[その]営業の一部分に止[とど]まり。決して純然たる肥料商と称すべきものにはあらず。其他[そのた]市中に少数ながら散在する此[この]商家は其[その]得意を園芸家に需[もと]むるに過ぎずして、極めて微々[びび]たる営業振[えいげふぶり]なり、斯[かく]て十万廿万の資本を有する諸肥料会社が純益中よりの配当率は、平均二割位に当るべし。

▼園芸家…園芸を趣味にしてるひとや、庭木の職人さんたち。
▲肥料の種類

さて此[この]十余年以来農家に用ひられし肥料は、其[その]種類いと多く、今その大綱目[だいこうもく]を挙[あぐ]れば、先[まづ]第一に水産肥料これは魚類の〆粕[しめかす]にて、北海道及び三陸地方は其[その]製造甚[はなは]だ盛[さかん]なり。次に肥料糠[ひれうぬか]これには赤糠[あかぬか]白糠[しろぬか]羽糠[はぬか]等の別ありて、頗[すこぶ]る有効なるものとして其[その]需要年々に増加せり。次には種粕[たねかす]、次には豆粕[まめかす]にて、中にも豆粕は大豆を以[もっ]て最上とし、其[その]産地として聞[きこ]えたる清国[しんこく]牛荘[にうちゃん]よりは我国への輸入盛大を極[きは]め、毎年春秋二期に入来[いりく]るもの、実に八百万円の巨額に達す。

▼〆粕…油をしぼったあとの残りかす。
▼種粕…菜種の油をしぼったあとの残りかす。
▼豆粕…大豆の油をしぼったあとの残りかす。
▲繁忙なる時期

は云ふまでもなく、春晩より初夏にわたれる挿秧[さうおう]の頃にて、全国の農家より続々大註文の来[きた]るは主として此時[このとき]にあり。さて之[これ]に次では秋季の施肥期[せひき]にして、彼[か]牛荘大豆[にうちゃんだいず]の春秋四百万円づつ入来[いりく]るょ見ても、秋季は又春季にも劣らぬ好況を呈するを知るに足るべし。

鰊粕乾すや菜の花畠道 疎山

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▼挿秧…苗をうえる。
▼牛荘大豆…清国の牛荘で穫れる大豆。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい