実業の栞(じつぎょうのしおり)古着商

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古着商

市内古着商の櫛比[しっぴ]するは、浅草仲町日本橋東仲通、下谷上野町、神田柳原等其[その][おも]なる処にて、昔は日本橋区富澤町に古着の市場あり、此[この]市場にて丁稚[でっち]より仕上げ、品質の識別をなすに差支[さしつかへ]なき者を、檜舞台[ひのきぶたい]を踏[ふみ]たる者と云ひしが、今は多くの古着商の中にても、真に眼識ある商人は稀[まれ]なりと。偖[さて]現時[げんじ]古着市場は、神田区岩本町に新と旧との二箇所ありて、開市[かいし]は大抵午前七時より正午迄なり。此[この]商売には問屋と云ふはなく、問屋と云はるるは質商なり。

▼櫛比…たちならんでる。
▼檜舞台を踏たる者…めきき。ベテラン。
▼現時…現在。
▼開市…営業時間。
▲市場の出店者

の中にも真の古着、新規の品(仕立物)解[と]き物、質物の流れ、前売[まへうり](小売店)が素人[しろうと]の払物[はらひもの]を買入[かひいれ]たる等[とう]物品に種々の相違ありて、仲間同士の売買[うりかひ]は凡[すべ]て現金取引ながら、新規の物(所謂[いはゆる]新物)のみは馴染[なじみ]なれば十四日晦日[みそか]の二度払なり。世には往々安直[やすね]に品を求めんとて市場へ来る素人あれど、決して商売人より安く購求する事出来得る筈[はず]なく、殊[こと]に市場の中[うち]にて綽名[あだな]を地獄谷と称する処にては、此[この]素人の買手を網を張りて待てる輩[やから]あれば、素人は注意すべき事なり。

▼馴染…顔の知れた業者。
▲種々の名称

大略前述の如く其[その]種類も多ければ、取扱品により種々の名称あり、仕立物を扱ふを丸物師[まるものし]と云ひ、解き物を扱ふを解き物師[ときものし]、絹物を扱ふをコツサ師、能衣裳縫模様等を扱ふをヒネリヤ又は珍物師[ちんものし]と云ひ、唐桟師[たうざんし]とは古流[こわたり]中流[ちうわた]りの唐桟[たうざん]を扱ふを云ひ、又質流[しちながれ]の品をホヤと云ふ。

▼能衣装…お能につかわれる衣裳。
▼縫模様…金糸や銀糸などで刺繍がしてある衣裳。
▲資本と利益

[ま]づ資本の上中下三等に区別すれば、上は十万円、中は二三万円、下となれば五十円にても出来得る事なり。利益は平均一割内外ながら、古渡唐桟[こわたりたうざん]、支那緞子[しなどんす]、描更紗[ゑさらさ]等は、眼識に富める商人なれば、非常なる利益を占め得るなり。


▲詐偽的の古着商店

市中に其数[そのすう]少なからず、表を立派に装飾し、雇人[やとひにん]の数人を召使へる店に、却[かへ]って詐偽品[いかもの]を売る者あれば注意すべし。但し解き物を売る家は、元より品物を解きあるより、詐偽品[いかもの]は先[ま]づ少なく、仕立物は解[ほど]きて示さざるもの故[ゆゑ]瞞着手段を用ふるものなり。此[この]偽物[いかもの]を造る職人を仲間にてイカヤと云ひ、市場にて安物を買ひ来[きた]り手間を掛けて甘[うま]く造り上げ、之[これ]を商店に売る。その手間は中々[なかなか]よく、普通の手間より二倍位の割合にて、之[これ]を売る商人は矢張[やはり]三倍の利ありと知るべし。


▲仲買と外人相手

仲買は質の流れを買入[かひいれ]て市場へ来[きた]り、五分位の口銭[こうせん]にて売買する又才取[さいとり]と云ふあり、俗に之[これ]をハタ師と云ひ、一方より買[かっ]て一方へ売る。此[この]利益は仲買と同じく五分位の口銭なれど、物によりては二分位の利にても売放[うりはな]つ事あり尤[もっと]も品質の判別に富まざれば、ハタ師は出来ざるものなり。又外人相手に能衣裳、縫模様等を売買する者は、普通の商人よりは利益多し。

▼口銭…手数料。
▼才取…せどり。
▲切替の時期

夏物は大凡[おほよそ]四月頃、冬物は九月なり。此際[このさい]資本に窮する商人は、冬物を質入して夏物を質受[しちうけ]し、或[あるひ]は夏物を質入して冬物を出すなど大方ならず苦心を為[な]すものなり。繁昌するは十、十一、十二の三ヶ月間にして、盆前後も品は動けど、最も閑散なるは盆過ぎより九月迄なり。


▲露店

の資本は十円にても廿円にても充分にて店を張るには大抵定まれる場所あり。利益は一割五分以上は確[たしか]なり。


▲困難なる時期

入梅[にふばい]頃にて、上州物[じゅうしうもの]もしくは八王子辺の新機物[しんはたもの]、さては繻子[しゅす]等にホシの出[いづ]る恐れありて、大[おほひ]に困難を感ずるなり。

▼入梅…梅雨。
▼ホシ…かびがぽつぽつ生えちゃう。
▲其他くさぐさ

[この]商人中には中々[なかなか]悪者多く、ヲキヤと称し質屋の眼識なきを見定めて、質置[しちをき]を専務とするあり。之[これ]は市場にて品物の悪[あし]きを承知の上にて買来[かひきた]り、子分をして予[かね]て見定[みさだめ]ある質屋へ入質[いれじち]させ、之[これ]を置流[をきなが]しになす事にて、出来星[できぼし]の質屋は此者等[このものら]に一杯嵌[はめ]られ損失する事多しとぞ。総じて近来は古着下落し、一万円の品物も八掛[はちがけ][すなは]ち八千円に減ぜる位にて、尚[なほ]市場へ買出に行く店員には奨励法とも云[いふ]べきありて、仮令[たとへ]ば一円の品を八十銭にて仕入来[しいれきた]れば、其[その]部合[ぶあひ]を出[いだ]して奨励する商店もありと云ふ。

秋風や七ッ下りの古手買 多代女

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▼出来星…ポッと出の。
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい