実業の栞(じつぎょうのしおり)貸船屋

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貸船屋

春季の花見船[はなみぶね]汐干船[しほひぶね]等は、孰[いづ]れも貸船屋が客の需[もとめ]に応じて出す処にして、此[この]貸船屋には網船[あみふね]釣船[つりふね]及び貸船[かしふね]専門の三種あり。先[ま]づ貸船専門の状態[ありさま]を窺[うかが]へば。

▼汐干船…しおひがりに遊びにゆく船。
▲資本金

は所謂[いはゆる]固定資本なり。今仮に荷足[にたり]一艘[さう]を新造するとして其[その]造船費五十円位[ぐらゐ]田船[たぶね]等にて廿円を要し、両種取交[とりま]ぜ五艘も所有すれば、船頭[せんどう]の一人も抱[かか]へて置かるる也。斯[か]く新造船のみにては中々[なかなか]資本は要すれど、中古[ちうぶる]の船を求むれば、荷足廿円位[ぐらゐ]田船五円位より七円位にて、相応に造作[ざうさく]すれば十年位の使用に堪[た]ゆべく、斯くせば大約二三百円もあれば此業[このげふ]は容易[たやす]く出来る事なり、網釣船屋に至[いたっ]ては上等の顧客[とくい]さへあれば、一艘位[ぐらゐ]は客が新造して呉[く]れる事あり。


▲所有船

は猪牙船[ちょきぶね]荷足[にたり]田船[たぶね]等にして、伝馬船[てんまぶね]は元[もと]運送用の船なれば、所有する貸船屋は稀[まれ]なり。但[ただ]し花見[はなみ]汐干船[しほひぶね]等の誂[あつらへ]あれば、伝馬[てんま]を所有する運送屋より船頭付[せんどうつき]にて当日のみ借入[かりい]る定[さだめ]にて、其[その]借賃[かりちん]は大伝馬[おほてんま]にて二人船頭付[せんどうつき]五円位の内一割以上二割位を手数料として貸船屋が差引くを常[つね]とす。併[しか]し火鉢[ひばち][すみ][ちゃ]は貸船屋の持[もち]と知るべし。


▲借上られし船

の利益は、其[その]伝馬が雇はれし船頭の持船[もちふね]なれば、二割引[ひか]れても四円の手取あり、此内[このうち]他の一人の船頭へ七十銭位を支払ひ、純益は自分の手間とも三円三十銭となる勘定なり。併し貸す前には、船中の掃除[さうぢ]より日除[ひよけ]雨除[あまよけ]の用意をなせば、平素の運搬と手間に大差なし。


▲乗客の数と直段

大伝馬なれば五十人位の乗込は確[たしか]なるゆゑ、五円とすれば一人の割[わり][わづか]十銭にて、中小伝馬とも略[ほ]ぼ同じ割合なり。荷足船は船頭一人付にて二円以上二円五十銭位(之[これ]は貸船屋の所有するもの)にて、乗客は十五人位なり。薄縁[うすべり]火鉢[ひばち][すみ]茶道具は貸船屋より入れ、日除付[ひよけつき]と無きとあり、船頭には其[その]直段[ねだん]の半額を与ふるが定めなり、此外[このほか]船頭は祝儀もが当[あて]にて、一人なれば客より三十銭位、二人なれば五十銭位を貰ふ。

▼薄縁…ござ。船にのる時にお客さんはこの上に座る。
▼祝儀…こころざし。チップ。
▲平日の貸船料

は田船一時間三銭半日十銭一日廿銭、荷足船半日四十銭一日七十銭船頭一人付にて一日一円五十銭位なり、田船は多く学生等の遊戯用にて、日曜[にちえう]大祭日[たいさいび]等には平日より何分かの直段を増す。


▲客の種類

神田川の貸船屋にて調べし処に依れば、同川西筋の貸船屋には、山の手の勤人[つとめにん]書生[しょせい]等多く、中にも書生は銭放[ぜにばな]れよきもあれど、悪[あ]しき輩[やから]に至っては往々乗逃[のりにげ]する恐れあり。同東筋は商人[しゃうにん]職工[しょくこう]等多く、築地[つきぢ]浅草[あさくさ]等も同じ種類なりと。

▼同川…神田川。
▲貸船屋の困難

十月より翌年二月迄五箇月間は喰込[くひこみ]にて、此[この]埋合[うめあはせ]には早船[はやふね]等を営[いとな]めども、矢張[やはり]晩秋より冬季に入りては乗客僅少なるより、已[や]むなく其間[そのあひだ]は他業に転ずる向[むき]多し。


▲花見と汐干船

に就[つい]ては、船頭に非常なる苦楽あり、知っての通り花見は多く向島[むかふじま]へ赴[おもむ]くより、神田川[かんだがは]等の枝川[えだがは]より出て、大川[おほかは]の上手に漕行[こぎゆ]く時は、大抵干潮[ひきしほ]に流[ながれ]を遡[さかのぼ]り、斯[かく]て帰路は夕景となれば、満潮[まんてう][すなは]ち上汐[あげしほ]に逆[さから]ふ事とて、漕行[こぎゆ]く路[みち]は近けれど船頭の労は非常なり。さりとて其割[そのわり]直増[ねまし]を請求する事も出来ず、素人[しろうと]の知らざる困難あり又汐干船[しほひぶね]は概[おほむ]品海[ひんかい]ほ趣[おもむ]くより、路次は遠きも出懸[でかけ]は大方[おほかた]干潮時[ひきしほどき]なれば、枝川より労せずして大川へ流れ出し、帰途は又満潮なれば、自然流れてるやうなものにて大に楽なりと。

▼直増…料金割り増し。
▼品海…品川。
▲貸船の流行

するは第一至極経済的なるにあり花見頃人力車に乗らんとすれば、平日より倍以上も賃銭を取らるれど船は其[その][うれひ]なく、着衣も自然粗末なる物にて足り、弁当も自分拵[じぶんごしらへ]にて間に合へば飲食店等に立寄る冗費[じゃうひ]を省[はぶ]き、僅々[きんきん]十五銭位を投ずれば歩行せずして花見に行かれ、汐干[しほひ]なれば多少の獲物[えもの]を以[もっ]て、船賃位は取返す利益あるより、毎年春季に於[おけ]る貸船屋の繁昌は大方ならず、殆[ほと]んど此時[このとき]を以[もって]て一年中の利益を見るといふも不可なき有様なり。

乗合ひのどれも沙魚[はぜ]釣る出船かな 疎山

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▼花見頃…お花見の季節。
▼賃銭…乗車料。
▼冗費…むだな出費。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい