春暖[しゅんだん]の頃、草花植木[くさばなうゑき]と美声を発して、市中を▼呼売[よびうり]する植木売あり、その▼嚆矢[かうし]は詳細に知る由[よし]なけれど、故老の説に大約[おほよそ]百五六十年前入谷[いりや]の里に要助[えうすけ]と云へるあり、此者[このもの]こそ此[この]行商の嚆矢とも云ふべき由[よし]にて、其後も矢張[やはり]入谷の植木屋成田屋[なりたや]以下のものに限られ、近く五六十年前は百草園[ひゃくさうゑん]丸新[まるしん]の祖父も、行商を為[な]し居たりとぞ。
草花植木と安物盆栽とにより其[その]資本に少異あれど、先[ま]づ草花の部にて約一円七八十銭以上二円位、安盆栽も凡[およそ]此位[このぐらゐ]あれば一荷[いっか]の品物は仕入らる、必要具は四分板[しぶいた]にて造り竹蔓[たけづる]を以[もっ]て綱[つな]の代用とせし台輪[だいわ]と称する植木台に、本六尺の▼天秤棒[てんびんぼう]と▼息杖[いきづえ]及び高[たかさ]九寸位直径六寸位の霧吹[きりふき]と腰掛[こしかけ]兼用の水桶[みづをけ]等は、此[この]行商に欠くべからざる必要具にて、之[これ]に要する費用二円位。
草花植木なれば入谷[いりや]が七分[ぶ]、本所物[ほんじょもの]と称して▼亀井戸[かめゐど]より仕入るが三分[ぶ]、安盆栽は団子坂[だんござか]駒込[こまごめ]、巣鴨[すがも]辺等より仕込む。
は売高によりて相違あるは勿論[もちろん]ながら、先づ一円七八十銭位仕入たる草花等を残らず売放[うりはな]てば、其[その]利益は約六七十銭見当なり。雨天の時は商売に出[い]でざれば無論喰込[くひこみ]と知[しる]べく、但[ただ]し之[これ]は資本及諸道具とも▼悉皆[しっかい]自分の所有となる商人の計算なりとす。
▼小鉢[こばち]なれば六七十位▼大鉢[おほばち]の時は二三十位にて、盆栽は小は四五十鉢、大に至っては二十鉢位を以て一荷と略[ほぼ]定め居れり。さて盆栽は上等の分にて一荷五六円以上十円位の処[ところ]のみ仕込む。
行商人は自園[じゑん]にて栽培する植木屋が七分[ぶ]を占め、際物師[きはものし]は三分[ぶ]位にて、売行く場所は品数多き内は日本橋[にほんばし]辺の繁華なる町々を持歩き、少しく品が減ずれば、▼目貫[めぬき]の町より劣る処へ行き、さて▼数品[かずもの]となれば一層下等の町へ来[きた]るを順序とす、但[ただ]し之[これ]は普通の行商なれど、際物師に至っては品物を減らさず、僅[わづか]数鉢を売りて其日[そのひ]の利益を得るを以て、商売上手と称す。
は五月頃は江戸菊[えどぎく]、桜草[さくらさう]等、七月頃よりは朝顔[あさがほ]の早咲[はやざき]、七草[ななくさ]等を持歩くなど、大凡[おほよそ]季節の草花を商[あきな]ひ、盆栽も季節向[きせつむき]の安物を担[かつ]ぎ行くと知るべし。総[すべ]て行商の連中は▼声柄[こゑがら]を自慢とし、美音の者は品を捌[さば]くに大関係ありさて買手あれば▼落着[おちつき]て水桶に腰[こし]打掛[うちか]け、煙管[きせる]を手にし二三服も吸ひ、決して売急[うりいそ]がず客の様子を見抜く事[こと]秘訣[ひけつ]なりとぞ。
は▼担[かつ]いでは行けず、多くは荷車にて引行[ひきゆく]より昼間の物とは仕入金に大差あり、例[たとへ]ば昼間一円七八十銭の仕入なれば夜は五円位かかる割合なり、其[その]利益も小使[こづかひ]或[あるひ]は▼油代[あぶらだい]荷車の▼損料[そんれう]場所の掃除代[さうじだい]等雑費に差引かれ、昼間より割合悪く、盆栽も同じく仕入に増額あり、利益は草花の口銭[こうせん]と同[おなじ]く、又地堀[ちぼり]ばかりを商ふ植木屋もあり、確[しか]としたる処は述べ難けれど、資本金十円を投ずれば、其[その]利益にて妻子三人暮しは楽なものなり。猶[なほ]縁日には組合と云ふものありて、入谷、巣鴨、高田等の別あり、平人[ひらびと]及び駈付[かけつけ]とて組合以外の者もあり、斯[かく]て組合加入者は銀座の地蔵西河岸[ぢざうにしがし]の地蔵[ぢざう]薬研堀[やげんぼり]等、屈指の縁日に出店するも、予[あらか]じめ其[その]場所に定[さだま]りあり、平人[ひらびと]は組合の次位に駈付[かけつけ]は其次[そのつぎ]に▼張るが仲間の定めにて、斯くすれば縁日の度毎[たびごと]に場所の▼争起[さうき]を避け得べし。因[ちなみ]に記[しる]す駈付[かけつけ]とは縁日の上等下等に係[かかは]らず飛入[とびい]りする者、平人[ひらびと]とは組合と駈付の▼仲間[ちうかん]にあるものにて、これ亦[また]平人[ひらびと]同志にて一組合を為[な]し居れり。
はで浴衣[ゆかた]植木に袖[そで]をひかれけり 三瓶