津田浦大決戦(つだうらだいけっせん)第十回

第一回
第二回
第三回
第四回
第五回
第六回
第七回
第八回
第九回
第十回

もどる

第十回

さても此方[こなた]は彼[か]の千山芝右衛門でございます、此度穴観音の六右衛門からの書面を得まして、殊に日開野金長のために余程苦戦を致したと云ふ次第、流石[さしもの]強情我慢の六右衛門ではございますが、己[おの]れが日頃片腕と頼みまする四天王の輩[てあひ]は追々討死を致しまして、最早術計尽きて加勢を頼んで来ましたのでございますから、兎も角も其の使[つかひ]の者に返事を致して置[おい]て、自分は忍姿[しのび]で浪人体に巧く化けまして、ホンの家来を一頭[ぴき][つ]れて態々[わざわざ]我が棲家を出[いで]まして、徳島へ乗込んで参ったのでございます、なれども此の芝右衛門と云ふ奴は今では己[おの]れが国では諸方を廻り勝手を弁[わきま]って居りますが、是れまで余り徳島の方へは出掛けて参った事がない、依って一度当地へ乗込んで来たからには、其処等[そこら]を見物仕やうと云ふのでございまして、先づ御城下を一通り廻りましたのでございます、此の御城下の内で一番賑[にぎや]かと云ふところは彼の新町橋[しんまちばし]と云ふところで、是れは非常に繁昌致して居ります、人間なれば昼間往来を致しまして見物をするのでありますが、根が畜生の事でございますから、彼れ此れ夜中と云ふ頃ほひ、人通行[ひとどほり]の稀[まれ]なる所を彼方此方[あちらこちら]を見歩るいたる後、何[ど]うやら斯[か]うやら橋詰[はしづめ]まで遣って参りました、

▼穴観音…津田にある六右衛門の城。
▼四天王…川島の作右衛門、川島の九右衛門、八島の八兵衛、多度津の役右衛門。
▼我が棲家…淡路の国。
▼根が畜生…夜行性なので。
▼橋詰…橋のたもと。

すると此れは所の名物と見えまして一人の夜蕎麦[よそば]売り、此の橋詰に荷物を下[おろ]しまして、年頃は六十にも近からうと云ふ一人の老爺[おやぢ]、何分夜分は風も吹き寒いのでありますから慄[ふる]へながらも 蕎麦切[そばきり]饂飩[うどん]」 と声を自慢に呼[よば]はりながら客待[きゃくまち]を致して居ります 老爺アァ寒い寒い、何で此頃は商売[あきない]は暇であらう、稀[たま]には休んで斯う云ふ寒い晩には寝酒の一杯も飲んで宵寝[よいね]を仕たいものであるが、然[さ]うすれば乃公[おれ]の口も乾上[ひあが]って了[しま]ふ、家内の者を養ふ事も出来ない、大分夜も深[ふ]けて来たが未[ま]だ中半[なかば]の余商品[よしろもの]が残って居る、売切って了[しま]って宅[うち]へ帰って寝たいものだ、好[い]い客が来さうなものだ、仕方がない是れから富田町[とみだまち]の方へ一廻り廻って来やうか知ら」 と考へて居りまするところへ、彼[か]の淡州千山の芝右衛門、チョッと人間の目で見ても深編笠[ふかあみがさ]の武家[さむらい]と化けて居りますから、分りさうな事はない 芝右アァ宅内[たくない]、此処は音に名高い新町橋と云ふのか 宅内お旦那御意にございまして、此処は中々昼間は賑はひまする所でございます 芝右ムムゥ何[ど]うも今宵は好い月であるな」 橋上[けうじゃう]に立ち止[とど]まりまして、城山の方から出る月を眺めまして、不図[ふと]橋の詰[たもと]を見ると、客待ち顔を致して居る一人[いちにん]の蕎麦屋、荷物を下[おろ]して呆然[ぼんやり]と致して居ります

▼夜蕎麦売り…夜泣き蕎麦屋。夜間に屋台見世などを移動させつつ、おそばやうどんを売って歩いた大道商人。
▼宅内…芝右衛門の家来の狸。「〜内」という呼び名は多く家来の武士に使われる役名でもあります。

芝右なァ宅内 宅内ハイ 芝右大分腹が空[へ]ったな  宅内左様でございます、私も余程腹が空[す]いて居ります 芝右[さいは]ひ此れに蕎麦屋がある、蕎麦など食って参らうか 宅内イヤお宜[よろ]しうございます、お相伴[しょうばん]を仕[つかまつ]りませう」 すると芝右衛門はツカツカと蕎麦屋の荷物の側へ進んで参りました 芝右蕎麦屋 老爺ハイハイお客様でございますか、お蕎麦の御用でございますか 芝右ムムゥ手前のは蕎麦ばかりしかないのか 老爺ヘェヘェお饂飩[うどん]もございます、又お好みに依りますと花かけ芋かけ、何[ど]のやうな物でも拵[こしら]へますでございます 芝右左様か、夫[そ]れでは其の上方[かみがた]で云ふ花巻[はなまき]と云ふ様な事は出来るか 老爺[ど]の様な事を致しまする 芝右アァチョッと浅草海苔[あさくさのり]を掛けて呉れたらよいのだ 老爺ヘェヘェ、イヤ出来ますでございます 芝右[そ]れでは熱くして呉れ 老爺[かしこま]りましてございます、お両人[ふたり]様でございますか、ヘェヘェ」 と老爺[おやぢ]は客を待[また]せて置[おい]て蕎麦を拵へ夫[そ]れへ出しました、此方は立ちながら此の蕎麦を食って居りますが、何んだか斯う俯向[うつむ]て、其の蕎麦の食ひ方が変でございますから 「アァお見受け申せば立派なお武家[さむらい]だが妙な蕎麦の食ひ方をなさる と思って居るうちに、忽[たちま]ちの間に其の蕎麦を食って了[しま]ひました 芝右モウ一膳代りを仕て呉れ」 と余程空[す]き腹でございますから代りを拵へさせ、三杯づつの蕎麦を食[しょく]致しました 芝右アァ中々貴様の蕎麦は旨い、代価は何程[なんぼ]である 老爺ヘェ私のは一分五厘でございます、お両人[ふたり]が三つづつでございますから六膳、九分頂きます 芝右アァ左様か、夫[そ]れぢゃァ此れを取って呉れ、余程旨かった、此れは一匁[もんめ]の札[さつ]であるぞ 老爺ヘェー有難うございます 芝右[しか]し此れから津田の穴観音と云ふ所へは余程あるか 老爺ヘェヘェ穴観音と云ふのは津田山の直[ぢ]き側でございます、是れから此の方の道を取って行[い]らっしゃいますと近道でございます 芝右アァ然[さ]うか、何分土地不案内であるから、大きに邪魔であった」 と其の侭[まま]其処[そのところ]を立ち去って了[しま]ひました、後で蕎麦屋の老爺[おやぢ]は 「結構だな、九分頂いたらいい所へ一匁札を二枚、稀[たま]には此んな客人[きゃく]が来ないと儲らない、余程身元のある人と見える」 推[お]し頂いて頓[やが]て荷物の抽斗[ひきだし]へ入れました、

▼花巻…海苔をもんだりしたものをかけた種もの。
▼代り…おかわり。
▼一匁の札…銀一匁のおさつ。

モゥボチボチと帰らうと云ふので、蕎麦屋は荷物を担ぎまして立ち去らうと致しましたが 「マテよ大きに邪魔を致した」と云って草鞋[わらじ]を穿[はい]て居らっしゃったのか知らんけれども、ガタともスッとも足音の仕ない内に、彼[あ]の人達は此の橋を渡って行って了[しま]ったのであるか、何[ど]うも不思議な事もあればあるもの、此の節[せつ]世間で噂をするのに、彼[あ]の穴観音と云ふ所に六右衛門と云ふ狸が棲息[すまゐ]を仕て居る、其奴[そいつ]が何[ど]うやら狸同士此頃[このごろ][えら]咬合[くひあひ]が始って、夜分などは非常に騒ぎだと世間の人も云って居らっしゃるが、穴観音の方を尋ねて居ったから、彼奴[あいつ]は武家[さむらい]の姿であったが、事に依ると狸ぢゃァないか知らんて、狸と仕て見れば本当の銭を払って呉れるやうな事はあるまいマテマテ査[あらた]めて遣る」 荷物を傍[かたはら]に置きまして抽斗[ひきだし]を開け、彼[か]の一匁札を取り出しました、行灯[あんど]の側で熟々[つくづく]と一匁札に違ひないかと眺めて居ると、此[こ]は抑[そ]も如何[いか]に、何の事はない焚付屋[たきつけや]が持って参る木の皮のやうな物が二枚でございます、 老爺オヤサァ失敗[しま]った、先刻[さっき]乃公[おれ]が受取った時は慥[たしか]に一匁の手の切れるやうな札であったが、此様[こん]な木の皮と何時[いつ]の間に掠替[すりかへ]をったのであらう、失敗[しま]った、何[ど]うも奴等[やつら]が蕎麦を食って居るのが可怪[をかし]いと思って居ったが、さては穴観音に棲息[すまゐ]をする狸のために騙[だま]された事であるか、何[なん]だ何か書いてあるぞ」 と云ひながらも其の木の皮の様な物を見ますと、淡路千山芝右衛門通用と致してございます 老爺千山の芝右衛門、アァ尚且[やっぱり]此れも狸ぢゃァ、人から噂を聞いて居るのに、あの淡路の千山の芝右衛門と云ふ古狸[こり]が棲息[すん]で居ると云ふ事を聞いて居るが、飛んでもない目に遭った、是れは間誤突[まごつい]て居ると遂に荷の饂飩蕎麦は全然[まるき]りなくなって了[しま]ふわい」 と非情に驚いて、此の蕎麦屋の老爺[おやぢ]は這々[はうはう]の体で迯げ出したと云ふ、矢張り今でも彼[か]の地の老人は此の夜蕎麦売[よそばうり]が千山の芝右衛門と云ふ奴に食逃げをされたと云ふ事を時々[じじ]話を致して居[を]ると云ふことでございます、

▼咬合…人間たちは「いくさ」ではなく「くいあい」といった程度に見てるという対比がおもしろポイント。
▼行灯…あんどん。紙を張って火室をつくった照明器具。
▼時々…ときどき。おりにふれて。

仕て見ると千山の芝右衛門と云ふ奴は穴観音の六右衛門の方へ加勢として乗込んだには相違ないと思はれるのでございます、さて新町橋の蕎麦屋は荷物を担いで駈け出しました、後へヌッと現はれました芝右衛門 「宅内旨かったな 宅内旦那実に結構なお相伴をさして戴きまして結構でございます 芝右アァ併[しか]し今の蕎麦屋は可愛相[かわいさう]だ、乃公[おれ]が巧く札と見せかけて我国で通用を致す乃公[おれ]の手形を渡して遣ったが、定めて後で困って居るであらう、矢張り他方[たはう]へ乗込んで来ると面白い事があるな、夫[そ]れは然[さう]と乃公[おれ]はチョッと聞いた事があるが、此の徳島の城下勢見山[せいみやま]の麓[ふもと]の観音堂の辺[ほとり]は大層見世物小屋があって繁昌致すと云ふ事である、今から穴観音へ乗込むと、又暫時六右衛門殿の許[もと]に厄介にならんければならぬ、依って其方[そのほう]大儀であるが、今からあの穴観音へ出掛けて、芝右衛門当地までは乗込んで参ったが、城下に一夜足休めを致して、明夜は必らず面会を致すと、左様申して呉れ、早く行け 宅内ヘェー、して旦那様は何[ど]うなさいます 芝右乃公[おれ]か、乃公[おれ]は序[ついで]であるから此の姿なら縦[たと]へ何[ど]の様な者が見た所が、乃公[おれ]の本体を見現はす者はない、依って当城下を明日は一日寛々[ゆるゆる]見物致して、彼[か]の見世物小屋の容子[ようす]見たし、明日の夜は必らず穴観音に乗込む事であるから、汝も一日城内に於て足休めを致せ 宅内[そ]れは旦那様お危[あぶな]うございます、何分貴方の御領分ではございません、勝手知らざるところへお出[いで]になりまして、殊に城下には数多[あまた]の犬も居りますし、もしかお身上[みのうへ]が現はれますると白昼などは尚更[なほさら]危険[けんのん]でございますから、夫[そ]れよりか今晩の内に穴観音へお乗込みに相成りましては如何でございます 芝右白痴[たわけ]た事を云ふな、余のものは知らず、此の芝右衛門は変化の術に妙を得て居るわい、幾何十匹の犬が取り巻かうとも、其の様な事を恐れる様な此の方ではない」 根が強情我慢な狸でございますから、中々聞き入れない、此の宅内の云ふ通り今晩[こよひ]の内に穴観音へ乗込んだら、別に危険な事はなかったのでございます、

▼他方…よその土地。
▼見たし…見たいものぢゃ。

[そ]れを家来を先に遣[つか]はして置[おい]て、さて此の城下を烏鷺突[うろつ]いて居る内に夜がガラリと明けました、此の千山の芝右衛門と云ふ古狸[ふるだぬき]は大胆不敵な奴でございまして、而[しか]も白昼己[おの]れは深編笠[ふかあみがさ]に面体を包んで立派な武家[さむらい]と化[ばけ]ました、彼[か]の勢見山の麓にありまする観音堂の境内[けいだい]へドシドシ乗込んで参りました、何分其の土地に於きまして、此の境内は中々雑踏を致しまして、種々様々の見世物小屋もあります、ところが一軒の小屋には木戸番が札[ふだ]売りを致して居りまする、表には看板がありまして[のぼり]も五六本立ってございます 木戸番サァサァ評判だ評判だ、是れは評判の犬太夫[わんわんだいふ]で、是れから太夫さんがいろんな芸を致しますぞ、サァ始まりだ始まりだ」 と頻りに犬芝居の興行に就いて札売は客を呼び込んで居る、前のところには大勢見物が立って見て居ります、さも看板は面白さうに、多くの犬が或は毬[まり]の上に乗って走る奴もあり、又は梯子[はしご]登り綱渡りなどを仕て居りまする絵が描いてある、此奴[こいつ]をジッと千山の芝右衛門は打ち眺めまして 芝右ハハァ此れは犬芝居と見える、近頃は世の中も追々進んで来るに従ひ、いろいろの興行物がある、四足[よつあし]が綱の上を渡る梯子の上へ昇る、又此の様な毬[まり]の上を自由に乗り廻すと云ふのは我々にも出来ぬ芸当、何も後学のためであるから一つ見て遣ろう」 と云ふので軈[やが]て千山芝右衛門は木戸銭[きどせん]を払ひまして、内方[うちら]へ這入[はい]り見物に混[まじ]って見て居りまする、すると犬使[いぬつかひ]は其のところへ出まして口上を述べまして、是れから其の犬の芝居と云ふ物を見物に見せるのでございます 

▼幟…のぼり旗。
▼犬太夫…わんわんだゆう。犬芝居の見世物。犬芝居は犬たちをうまく動かして曲芸をさせたり、よく知られた演目のお芝居をさせたりしてお客をたのしませるもの。

犬使永らくの間[あひ]だ打囃[うちはや]しましてさぞかし御退屈でございませう、茲許[ここもと]太夫お目通りまで差し控へさせまァす」 と口上に伴[つ]れまして又[はやし]を入れます、ところへ立派な涎掛[よだれかけ]をさせまして、一匹の犬の首輪に付いた細引[ほそびき]の先を犬使が持って伴[つ]れて出ました 犬使お目通りまで進みましたるは犬[わんわん]太夫にございます、何分御贔屓[ごひゐき]の程を願ひ置きます、茲許[ここもと]御覧に入れまする梯子[はしご]登りの儀は何分躍業[はなれわざ]でございまして、根が畜生の事でございますから何[ど]うせ遣り損じもございませうが、其の辺のところはお目長く御覧の程を願ひます、いよいよ太夫身支度の間[あひだ]今一囃[ひとはやし]は御用捨[ごようしゃ]を蒙[かうむ]ります」 云ひながらも、其の犬を楽屋の内へ伴[つ]れて這入[はい]らうと致しまするが、今舞台の正面へ出ました彼[か]の犬[わんわん]太夫、前のところが土間になってございます、皆[みな][そ]れに立って此の芸を見て居りまする、然[しか]るに犬は見物の方を向きまして尻を盛立て牙を剥出[むきいだ]だし 「ウーッ」 と唸[うな]り出しましたな 犬使此れ太夫、サァ支度をせんければならぬ、早く這入[はい]らんか、何を仕て居る、 綱を引張って引き入れやうと致しますが、中々何[ど]うして動きません、益々見物に飛び掛らんと云ふの有様でございます 見物オヤオヤ此の犬は大変な勢ひであるわい」 と見て居りますると、犬使ひも不思議に思ひましたが、幾ら引張っても動きません 犬使此りゃァ可怪[をか]しい塩梅[あんばい]だ何[なん]ぞ見物が小鳥か何か持って居る、夫[そ]れを狙って居るのではあるまいか、いつも此[こ]んな事はないのである」 と無理に引かうと致した途端、遂に其の綱を持って居った手がスポっと外れました、今犬使ひが手を放したを幸[さいは]ひと致しまして、舞台の上から勢ほひ込んで犬は忽[たちま]ち見物の中へ飛び掛って参る有様でございますから、夫[そ]れへ這入[はい]って居りました四五十人の見物、一時にドッと騒ぎ始めました 此りゃ何ぢゃ、犬が大変暴れ出した」 と見物の者は四辺[あたり]へ避[よけ]まする、然[しか]るに中には臆病な奴は木戸口へ飛び出すと云ふ騒ぎでございます、只[ただ]真一文字に立派な編笠[あみがさ]阿弥陀[あみだ]に被[かぶ]って笠の内から眺めて居りました、彼の千山の芝右衛門狸を望んでオッと喰ひ付いたのでございます

▼囃…お囃子。
▼細引…ほそいひも。
▼尻を盛立て…おしりのほうをうえにあげて。
▼阿弥陀…仏像の光背のように笠を頭のうしろのほうにつけてること。

芝右[おの]れ無礼なるところの畜生奴[め]」 と自分は武家[さむらい]に化けて居りますのですから、大きに立腹致し、早や腰なる一刀を引き抜かんと致す 「[な]に猪牙才[ちょこざい]」 と云はんばかりに、犬は彼[か]の千山芝右衛門の足へガブり喰ひ付いた、忽[たちま]ち其のところへ仰向けに倒れましたる事でございまして、怪しげな声を発しまして助けを呼ぶのでございますが、中々犬使[いぬづかひ]は飛び下りて制しましたが止[とど]まりません、遂[つ]ひに千山芝右衛門の咽元[のどもと]を望んで喰[くら]ひ付き一振り振りまして到頭首を喰ひ切[ちぎ]ったる事でございます、何条以って堪[たま]りませうや、一刀の柄[つか]に手を掛けたる侭[なり]で、其のところで千山芝右衛門は此の犬[わんわん]太夫のために食ひ殺されましたる事でございます、併[しか]し此れが狸と思へばさう騒ぎも致しませんが、太夫元[たいふもと]始めと致して表方[おもてがた]一同の銘々真青[まっさを]に相成って驚きました、何しろ是れは容易ならさざるところの騒動であると思ひまして、早々此の事をお上[かみ]役人へ訴へると云ふ事になりました、今日勢見山の観音堂の境内の犬芝居で、見物の武家[さむらい]を遂に犬が喰ひ殺したと云ふ事でございます、依って役所よりは与力[よりき]同心[どうしん]手先を伴[つ]れ現場へ駈け付けて参りました、

▼太夫元…興行主。

役人何がために大勢の者が付き従って居りながら斯様な事を致した、此れ容易ならざる事である、犬を縛[しば]」 到頭其の犬は犯罪者と見做[みな]して其の場で取り押へました、太夫元は真青[まっさを]に相成りまして 太夫何分いちいちお名前を聞いて入[い]れるのではございませんから、此のお武家は何処[どこ]のお武家と云ふ事は分りません、飛んでもないところの間違ひが出来ました、何分畜生の致しました事で御勘弁の程を願ひます 役人イヤ間違ひでは済まさん」 其処で小屋掛[こやがかり]一同の者役所へ出ろと云ふ非常の騒ぎでございまして、何分にも此れが何処[いづれ]の者であるか、家中[かちう]の者ではあるまいかと、段々改めて見ましたが、別に何処の武家[さむらい]とも分りません、是れが詰[つま]らぬ普通[なみなみ]の狸が化けて居れば、食ひ殺されたら忽[たちま]ち姿を現はすのでございますが、余程化けるには巧みな奴と見えまて、気管[のど]に喰[くら]ひ付かれ鮮血迸[ほとばし]り虚空[こくう]を掴[つか]んで敢果[あへ]なき最後を遂げたが、正体を現はしません、夫[そ]れですから非常に心配致しまして、いよいよ此の死骸を徳島役所に伴[つ]れ帰ると云ふことになりました、戸板に載せまして、犬は縛って役所へ伴[つ]れ出しました、其処で此の武家[さむらい]の衣服を取り裸体[はだか]に致しまして、検[あらた]める事になりましたが、丁度其の日のかれこれ申刻[ななつ]頃ほひに相成りますると此[こ]は抑[そ]も如何[いか]に、身体[からだ]は一面に毛だらけでございますから 役人オヤオヤ大変な有様である」 と役人は驚いて居る内に、到頭自分の正体を現はしたものでございますが、犬のために食ひ殺されまして半日ばかり我が正体を現はさんでございましたが、其処で懐中物紙入[かみいれ]を調べました時に、丁度付木[つけぎ]の様な物に千山芝右衛門通用と記した、比の札を沢山[たくさん]所持いたして居ります、是れは前夜蕎麦屋を欺[だま]し札[さつ]と見せ掛けましたのであります、其処で千山芝右衛門狸と云ふ事が茲[ここ]に至って相分ったのでございます、此奴[こやつ]は此の小屋に這入[はい]らずに穴観音へ参りましたら、別段斯[かか]る目にも遭はなかったのでありますが、此の犬芝居を見物に這入[はい]ったばっかりに、穴観音の六右衛門の味方をも致さうと云ふ、然[しか]も一方の大将分千山芝右衛門と云ふ狸は斯様な次第で最後を遂げましたやうなことでございます、

▼申刻…午後4時ころ。
▼紙入…財布。
▼付木…火のたきつけに使うもの。薄くぺらぺらに木をそいだものなどが使われます。

[そ]れはさて置き茲[ここ]に又穴観音の六右衛門が棲息[すまゐ]ょ致しまする所を狸中間[たぬきなかま]よりは是れを立派な本城と見做[みな]すのでございます、まして当時は金長と云ふ大敵を控へまして、大手搦手は今は門を閉切って了[しま]って、縦[たと]へ此の城内の者でも門の出這入[ではい]りを致す時には印鑑と云ふ物がなくては通行を許しません、まして表門は六右衛門の重役八丈赤右衛門[はちじゃうあかゑもん]と云ふ奴が、己[おの]れの部下五十匹ばかりが付き従ひまして、厳重に昼夜とも怠[おこた]りなく警護を致して居るのでございます、少しでも怪しいと思った奴がありましたら、縦[たと]へ平常[ふだん]から出入を仕て居ります者でも、中々此の門を通行させません、依って部下のものも皆々交代でここに詰めきって居りますのでございまして、今しも番所の側へ進み出ました赤右衛門 赤右コリャコリャ其の方共に於ては油断なく出入のものにいちいち心を付けて居るか ハッ、仰せの通り少しも油断は仕りません、御門を通ろうとする者は充分改めた上でないと通しません 赤右ムムゥ、いちいち此方[このほう]に達せよ、少しでも怪しいと見た奴は遠慮はない、ドシドシ召し捕りに及べ、平常[ふだん]とは違って今は敵の日開野金長と云へる曲者奴[くせものめ]が、をりをり種々様々姿を変へ、此の辺を徘徊致す由[よし]である、依っていちいち改めた上でなくば通すことは相成らぬぞ ヘェ、如何にも承知仕りました、何[いづ]れも厳重に守ります事でございます」 今部下のものに下知をいたして居りまする、

▼印鑑…通行手形。
▼八丈赤右衛門…六右衛門の家来の狸のひとり。門を警護する役目をおおせつかってます。

折しも此の穴観音の大将六右衛門の愛妾[あいせふ]千鳥[ちどり]と云ふ女狸[めだぬき]が、一匹の腰元を伴[とも]なひ、其の後につづいて遣って来たのは例の庚申の新八、姿はチョッと中間[ちうげん]と云ふやうな風体でございまして、今門へ掛って参りました千鳥は、チョッと番のものに会釈を致しまして 千鳥皆さん方お役目御苦労にございます」 云ひながら其の侭通り抜けやうと致しまするから 赤右コリャコリャ待[また]っしゃれい夫[そ]れへ居らっしゃるのは千鳥さんではないか」 と八丈赤右衛門は声を掛けました、千鳥は夫[そ]れと見て 千鳥ハイ何か御用でございますか 赤右貴女[あなた]お部屋でございますから構ひませんが、其の後[あと]に伴[つ]いて居る怪しげな奴、コレ其の方は何者ぢゃ、何がために無断で通行せんとする名前を云へ、夫[そ]れッ」 と八丈赤右衛門は目配[めくばせ]を致しますと、バラバラッと多くの番の者夫[そ]れへ進んで参りで取り巻きました、庚申の新八は 「イヤ此れは御門番さん御苦労さんでございます、私でございますか、私は此れなる千鳥の兄でございまして、今日千鳥を主公様[とのさま]の前まで送って参りますのでございます、其の上主公様[とのさま]に少々お願ひの筋があって参らうと云ふのであります、何[ど]うかお通し下さいますやう願ひたうございます 赤右控へろ、汝下郎の分際と致して、縦[たと]ひ千鳥殿の身内にもせよ、是れまでは只の一度も見た事がない怪しいところの曲者、門鑑[もんかん]なく致して通らうと致すは甚[はなは]だ不埒[ふらち]な奴、此の八丈なるものは大将の御下知に依って、此の御門を守って居る以上は、一人と致して通す事は罷[まか]りならぬわい 新八ヘェ此れはまた大層な勢ひでございますね、私は只今申し上げました、妹千鳥の付き人と致して此れまで参ったのでございます、コレ千鳥お前黙って居ないで何とか云って呉れんかさもないと此の兄[あに]さんが迷惑をする、御門を通る事は出来ない」 云はれて千鳥と云ふ女狸が振り返りまして 千鳥アァモシ八丈様、決して怪しいものではございません、此れは妾[わたくし]の兄猿三[さるざう]と申しまするものでございます、妾[わたくし]と同道致して参りましたが、主公様[とのさま]に少しお願ひがあって参ったのでございます、何[どう]ぞ御門をお通し下さいますやう願ひます  赤右アイヤさう云ふ訳にはなりません、暫時[しばらく]の間お待ち下さい、縦[たと]へ千鳥様の兄御でも、私は是れまで只の一度も見た事がありません、依って暫時[しばらく]お待ち下さい、一応此の事を主公様[とのさま]へ伺ふた上でないと、拙者の一存では計[はか]らへません、兎に角伺った上で 千鳥[そ]れは妾[わたくし]が主公様[とのさま]にお目に掛りまして兄の事は申し上げますから、是非ともお通し下さい、 赤右イヤなりません、私の役目が済みません、是非とも御前へ伺って後でないと通す事はなりません 赤右オイオイ千鳥、何故[なにゆゑ]また此のやうに疑はれるのであるか、乃公[おれ]は此んなところでぐづぐづ仕て居る内も、父[とっ]さん病気が気になってならないから、乃公[おいら]モウ是れから帰る」 と少し立腹致した体でございまして、其の場を立ち去らんと致しますから

▼千鳥…八幡の森で茶店を出してる権右衛門狸のひとりむすめ。六右衛門の寵愛を受けており、城へ奉公をさせられてます。
▼中間…武家へ仕えるめしつかい。やっこさん。
▼お部屋…おへやさま。側室。
▼下郎…しもべ、めしつかい。
▼猿三…庚申と猿が関係あるところからの偽名。みざる・いわざる・きかざるの三猿は庚申塔によく用いられる彫刻。

千鳥アレモシ兄[あに]さん一寸[ちょっと]お待ち下さいませ、お前様のやうに気の短かい事を仰しゃるものではありません、モシ八丈様、夫[そ]れでは是れ程までにお願ひ申しても貴方は何うしても御門を通して下さいませんか、夫[そ]れでは勝手になさいまし、其の代り妾[わたくし]は主公様[とのさま]にお前様が日頃からいろいろな意地の悪い事をなさるのをみな告げますから覚[おぼへ]てお出[い]でなさい、兄[あに]さん貴方はモゥ帰って下さい、何うしても御門を通る事が出来ないのでございますから 赤右アァモシモシ是れは怪[け]しからん、そんな事を云はれては堪[たま]ったものではございません、役目を大切と思ひますから厳重に調べるのでございます、お前さんに其様[そん]な事を云はれると此方[このはう]が失敗[しくじ]るやうな事になります、イヤ宜しいイヨイヨ是れはお前さんの兄[あに]さんに違ひないと云ふ様な事であれば夫[そ]れは宜しい、お通り下さい 千鳥其様[そん]なら此の侭[まま]兄を通して下さいますか 赤右サァサァならぬと云へば千鳥さんは其の返礼に主公様[とのさま]へ何[ど]のやうなことを告げなさるかも知れない、夫[そ]れが怖さにお通し申すのでございます 千鳥[そ]れでは兄[あに]さんサァ妾[わたくし]と一途[いっしょ]にお出[いで]なさいまし、是れは御門番さんお役目御苦労に存じます」 と千鳥は新八を伴[つ]れて門を通る、勝手に仕やァがれと八丈も口の内で呟々[ぶつぶつ]小言を云って居りました、豈夫[よもや]敵方の片腕然[しか]も一方の大将なる庚申の新八と云ふ事は夢にも知りません、さて千鳥を利用して大胆不敵にも、敵の城内に乗込むと云ふ、流石[さすが]は金長の味方の一頭[ぴき]、名も猿三と変へて本丸へ通り、妹千鳥の願ひに依って庚申の新八、大将六右衛門の側に近付きまして、彼れを巧く欺[あざむ]き己[おの]れは此の城内に足を止[とど]め、表面[うはべ]は穴観音の六右衛門の味方の一頭[ぴき]となって、城内の手配りの有様、又は諸将の気質、且[かつ]は当城内より搦手に抜け穴があって何処[どこ]へ出ると云ふ容子[ようす]、奥御殿にある泉水[せんすい]の流れは二の丸の水門に続き、末は津田の海辺に流れ落[おち]る一線[ひとすじ]の川を見付け、此れ倔強と思ひまして、遂に城内の様を一々暗号を以って記[しる]し、窃[ひそか]に日開野金長に通知を致し、彼れを手引[てびき]を致して当城内に引入れ、六右衛門を滅し、彼れが秘蔵致して居りまする変化の術の極意の認[したた]めある、彼[か]魍魎の一巻を首尾よう奪ひ取らうと云ふ、此の庚申の新八が一命を賭[と]して余程の苦心、流石[さすが]は六右衛門の家老の一頭[ぴき]、四天王の筆頭でございました川島九右衛門、彼れの怪しい挙動に目を注[つ]け、遂に縄を打って庚申の新八を六右衛門の目通りに引き出し、是[これ]敵の間者[かんじゃ]と見做[みな]して、今や首を刎[はね]んと致す、大胆不敵にも首の座に直りまして、新八は如何なる事を述べて六右衛門を欺[あざむ]きまするか、

▼魍魎の一巻…さまざまな化け術の極意がしたためられているへんげたちの秘伝のまきもの。
▼縄を打って…捕縛して。
▼間者…しのび、間諜、スパイ。

又日開野金長、続いて金長の片腕なる彼[か]の小鷹、高須の隠元、又は田の浦の太左衛門、女でこさあり庚申の新八の妹臨江寺のお松、是れ等[ら]重立[おもだっ]たる者充分身軽に打扮[いでたち]、此の水門口より入り込ませ、流石[さしも]強悪[がうあく]無道なる穴観音の六右衛門を討ち取ると云ふ、いよいよ手詰[てづめ]に至って金長六右衛門が必死の戦[たたかひ]と云ふ、是れからが益々佳境に入るのお話しになりまして、さて四国の総大将の格式は日開野金長が握り果[おほ]せまして、我が部下の一頭[ぴき]藤の樹寺の小鷹を二代目の金長とし、我が名跡を継がせ、遂に金長が名誉の戦死の一段より、全く穴観音の六右衛門の滅び失せたる後、修行のために態々[わざわざ]讃州[さんしう]八島の八毛狸[はげだぬき]の許[もと]に滞在致して居りました六右衛門の一子千住太郎が、我が父六右衛門の無念を晴さんと云ふので、是れから様々の苦心を致しまして、川島葭右衛門[よしゑもん]と云ふ小父[をぢ]狸を頼んで是れを軍師と致して多くの味方を募り、彼の日開野二代目金長に対し吊合戦[とむらいがっせん]を致さんと云ふ、いよいよ当編の大団円と相成りまするまでのお話しを引き続き『日開野吊合戦』と表題を改めまして詳しく申し上げる事に仕ります、尚[なほ]第初編[だいいっぺん]には本講談の合戦の地理を一目[いちもく]にお分りよきやう、彼の徳島市有名の画伯が筆になりましたる狸合戦の地図を載せて御一覧に供へてありまするから、初編二編とお引き合せの上、第三編発行の上は前二編同様に、御愛読あらんことを、偏[ひとへ]に伯龍希[こひねが]ひ置きまする。




古狸奇談津田浦大決戦 (終)

▼讃州…讃岐の国。
▼八毛狸…前(本書の第八回)は禿狸と表記されてましたが、こちらに変更され以後これが用いられます。

明治四十三年三月二十日 印刷
明治四十三年三月廿九日 発行

(紙質改良上紙製本)

講演者 神田伯龍
発行者 中川清次郎 大阪市東区備後町四丁目卅八番地
印刷者 井下幸三郎 大阪市南区末吉橋通四丁目十六番地
発行者 中川玉成堂 大阪市東区備後町心斎橋筋西へ入

特約大売捌所
 南区八幡筋西横堀北入 島之内同盟館
 南区心斎橋南詰東へ入 名倉昭文館
 南区心斎橋安堂寺町南 田中宋栄堂

●注意{御注文及び御問合せの節は総て往復はがき又は三銭切手御封入願上候}

▼明治四十三年…1910年。
校註●莱莉垣桜文(2018) こっとんきゃんでい