東武 神屋蓬洲述並画
抑[そもそも]讃岐国[さぬきのくに]▼補陀洛山清浄光院支度寺[ふだらくさんせうぜうこういんしどじ]と申すは。予弥国[王+炎]王[よみこくえんわう]の草創にて。補陀洛[ふだらく]の自[みづか]ら彫刻し玉ふ十一面観世音を安置し奉れる霊場なり。人皇三十四代推古天皇[すいこてんわう]の勅願にて藤原姓[ふぢはらうじ]の建立せらるる所とぞ。結縁[けつえん]の為こたび六十[むそじ]の日を限りて開帳あれば。西より東より南より北より。▼都鄙[とひ]の老若[ろうにゃく]袖を連ねて群集し。其[その]賑[にぎわ]ひ大かたならねば。余多[あまた]の商人[あきびと]さまざまのうり物を持運びて。ここかしこに積置[つみおき]つつ。十分の利を取るべしとぞ競ひあへり。▼酒肆[しゅし]あり▼茶肆[さし]あり。▼薬ひさぐ軒[のきば]あり。そが中に彼[か]の軍藤六[ぐんとうろく]は鰐蔵[わにぞう]と謀[はか]りて俄[にはか]に▼仮家を造り設け。最[いと]大きなる▼看板[まじるし]に。▼九十九の口ある女を。あくまで恐ろしき姿に写さし。先[まづ]是を外[と]の方に高々とかかげ出[いだ]せり。されば古今に奇[あや]しと奇[あや]しきを見するもの。或[ある]は頭[かしら]の双[ふたつ]なる児[こ]。蛇遣[へびつか]ふ女。▼人魚[にんぎょ]▼雷獣[らいじう]の類[たぐい]。其外[そのほか]あげて算[かぞ]ふるに遑[いとま]あらねど。九十九口[くじうくこう]の女と云[いへ]るは誰も見もせぬ。▼未曽有[みぞうう]の妖怪[ようくわい]なれば。往来[ゆきき]のもろ人[ひと]所せきまで此[この]仮家につどひ来たり。交[こもごも]是を窺[うかが]ひ見る。
其[その]▼隣[とな]れるは鰐蔵が造り成[なせ]せる仮家[かりや]にて。是は▼薯蕷[やまのいも]の半[なかば]鰻魚[うなぎ]になりたる所を画[ゑ]がきし看板[まじるし]とかかげたり。又奇[あや]しければ。誰々も見まゆしとて。小屋の口に押合[おしあひ]ぬ。扨[さて]此[この]薯蕷[やまのいも]は。▼紀の国なる▼山樵[やまがつ]がこの所にもて来ぬるを。鰐蔵忽[たちまち]庶幾[そこばく]の金[こがね]を出[いだ]して求め置[おき]。なをそこばくの利を得べしと。かく人々に見するになん。やがて大きなる篭[かご]に入れて荘[かざ]り置[おき]声はり上げて然々[しかじか]の謂[いは]れをかたり。やをら蓋[ふた]を明[あけ]て裡[うち]をみるに。昨日は半[なかば]薯蕷[やまのいも]なりしも。▼はや尽[ことごと]く鰻魚[うなぎ]とのみ成り果[はて]たり。鰐蔵見るより大に驚き。こはこはいかにこはいかにと前後を忘[ぼう]じて泣[ない]て曰[いはく]。やよ鰻魚[うなぎ]よ慥[たしか]に聞け。汝半身[はんしん]薯蕷[やまのいも]なればこそ。多くの金[こがね]に替[かへ]もしつ。如何に心なき▼鱗[いろくづ]の身なればとて。さほどの事をも弁[わきまへ]ず。忽[たちまち]尋常の鰻魚[うなぎ]となれる愚[おろか]さよ。かかる姿と成り果[はて]て。いづれの用にか立[たつ]べきぞ。今は唯[ただ]八裂[やつざき]にして食[くら]ふとも飽[あき]たらじ。難面[つれな]のうなぎや。情[なさけ]なの鱗[いろくづ]やと。且[かつ]悲しみ且[かつ]怒れば。彼[か]の集[つど]ひたる諸人[もろびと]も。どっと笑ひてちりゆきぬ。斯[かく]て鰐蔵は人心地[ひとこごち]もなく。塩々[しほしほ]として軍藤六が許[もと]にいたり。小屋の傍[かたはら]に声を密[ひそめ]て。かうかうとものがたれば。軍藤六も夫[それ]と聞くより。気の毒さ謂[いは]んかたなく。唯[ただ]呆[あきれ]にあきれ居たり。
又鰐蔵が云ふ。迚[とても]今度の開帳には始[はじめ]より斯[かく]間がわるければいかなる事を工[たく]む共[とも]幸[さいわひ]に合ひがたかるべし。唯[ただ]仕馴れたる▼夜働きに如[し]くまじければ。小屋を直[ただち]に打壊[うちこぼさ]んと思ふなり。魁首[おかしら]も▼阿姉[あねご]を。右[かく]▼道場に曝[さら]すことを止[やめ]ねと云[いへ]ば。軍藤六頭[かしら]をうちふり。是は寔[まこと]に筋なき事を聞くものかな。汝が身にさほどの不仕合[ふしあはせ]ありしとて。我又物に損亡[そんもう]あるべきやうもなし。見よ我は此[この]開帳中。量[かぎり]なき金銭をもうくべきぞと。ささやかに語らひ居たる其処[そのところ]へ。当寺の▼方丈[ほうぜう]より▼使僧[しそう]を立[たて]て。軍藤六夫婦の者へのたまひ越せしおもむきは。いかに汝等[なんじら]謹[つつしん]で承[うけたまは]れ▼当山の院主[いんしゅ]辱[かたじけな]くも昨夜観音の▼霊夢を蒙[かうむ]る仔細あり。夫[そ]は此[この]新珠島[しんしゅじま]のかたほとりに。金[こがね]あまた入[い]りたる胴巻[うちがへ]の落[おち]居たるを。観音菩薩みづから拾置[ひろひおき]玉へり。扨[さて]件[くだん]の金[こがね]を九十九口の者に会[あふ]て与へよと告[つげ]玉へり。今茲[いまここ]に汝が妻[つま]九十九口を生ぜしよし聞[きこ]えたれば。即[すなはち]院主より召寄[めしよせ]らるる処なり。勿論[もちろん]世界のうち九十九口の者とては又一人ともあるべからず。されば唯[ただ]観音菩薩の汝等に授[さづけ]玉はるものならじ。いでいで御前へ参るべしとぞ促しけり。さと聞くより軍藤六は。不審ながらも金[こがね]と云ふにほとほとよろこび。取る物も取りあへず。妻なる野風にかくと告[つげ]。頓而[やがて]将[い]て参るべしとぞ答へにけり。傍[かたはら]に聞[きき]居たる鰐蔵も。最[いと]不思議なる事に思へりしが。唯[ただ]▼さいわひの向き来べき時節なめりと。心のうちに羨[うらや]みささ。扨[さて]軍藤六もろともに。野風をやをらたすけ起[おこ]して 。小屋の中[うち]よりいがめしくも立出[たちいで]たり。野風は次第に惣身[そうしん]爛[ただ]れ腐れて。余多[あまた]の口々は尽[ことごと]く▼歯もとを顕[あら]はし。髪さへぬけて面[おもて]はをのづから癩病の如[ごとく]に見ゆれば。往来[ゆきき]の人もこれが為に目を塞ぎ鼻を隠せるばかりなり。されども奇[あや]しきものをば。あやにくに見まほしきならひにて。例の人々前後に纏[まつ]はり。あるひは老[おひ]たるを倒し。若きを突遁[つきの]け。▼延上[のびあが]りて。是を見んと競ふなる。いといと▼乱[らん]がはしき迄[まで]喧[かまびす]しかりける。
此日も亦復[またまた]申の刻[さるのこく]に程近ければ。やがて米吉[よねきち]も詣来[もうでき]ぬ。折[おり]しも此[この]▼人立[ひとだち]せしを。何事やらんと窺々[うかがひうかがひ]歩み行ければ。思はずも彼[か]の方丈の玄関前にぞ近づきたり。向[むか]ふを見れば。金屏風[きんべうぶ]を▼立渡[たてわた]して。中央に院主[いんじゅ]を置[おき]。あまたの僧侶右左りに▼并居[なみゐ]たり。扨[さて]敷板[しきいた]の前に行[ゆき]て平伏[へいふく]する。夫婦のものは。則[すなはち]母の敵[かたき]なれど。神ならぬ身の露ばかり夫[それ]と知らねば。唯[ただ]よそ事に見居たりけり。右[かく]て院主は。彼所[かしこ]に金[こがね]の入[いり]たる胴巻[どうまき]の落[おち]居たるを。観世音の拾ひ置[おき]玉へるが。九十九口の者にあふて与ふべきよし。夢の告[つげ]有[あり]ける始末をの玉ひて。くだんの胴巻を取出[とりいだ]し。とみに此[この]九十九口の女にぞ与へる。米吉こなたに立居[たちゐ]て其[その]胴巻を克々[よくよく]見るに▼きのふかしこに落[おと]せし覚[おぼへ]のものなれば。今[いま]聞[きき]し▼夢もの語[がたり]を大に不審[いぶ]かり。迚[とて]も▼道ならぬ金[こがね]なれど。君父[くんぷ]の為に借[から]まくおしき身の代[しろ]なれば。看々[みるみる]▼異人[ことひと]にとられんも口惜しと忽[たちまち]大勢をわって入り。軍藤六が傍[かたはら]に平伏[へいふく]して。彼[か]の金[こがね]を▼取落[とりおと]せし主なるよしを云ひ出[いづ]れば。院主を始め皆一同に驚きけり。
中に▼都講[とこう]めきたる法師出[いで]て米吉に云ひけるは。いかに汝[なんじ]金[こがね]を落せし主なりとも。霊夢によりて九十九口の者に与ふる処なれば。曲[まげ]て汝に与へがたし。さるにても汝[なんじ]聢[しか]と落[おと]せしに究[きは]まらば。如何なる金[こがね]をいかばかり入れおきしぞ。疾[と]く申せとぞ責[せめ]たりける。米吉は此[この]返答に言葉なく。はつとばかりにひれ臥しぬ。軍藤六は米吉を白眼[にらみ]見て大に怒り。汝は▼勘太がもとにもてあませし小丁児[こでっち]ならずや。いかなれば茲[ここ]に来て我が幸[さいはひ]を妨[さまた]げんと。斯[かく]▼大衒[おほかたり]を云ひ出[いで]しぞ。此頃[このごろ]夜な夜な▼往還を刧[おびや]かして財宝を奪ふと聞[きき]しも。定[さだめ]て汝らが業[わざ]なるべし。よしかかる盗賊をば懲[こら]しめんに如[しか]じとて。拳を上[あげ]て丁[てう]とうてば。さすがにも米吉は無念の涙せきあへず唯[ただ]心中に思ふやう。正[まさ]しく賊の奪ひたる金銀と。我また密[ひそか]に奪はんとせし咎[とが]に。かく観音の罰[ばつ]し玉へるものならじと。さしうつむきて観念すれば。盗人[ぬすびと]と聞[きき]しより。例の鰐蔵かたへより飛[とび]かかりて無二無三[むにむさん]に打擲[てうちゃく]す。なを境内の商人[あきびと]ども。はた。▼先より茲[ここ]に見物せし人々のうちよりも。手々[てで]に拳をふりたてて。盗人を打殺せ。たたき殺せとひしめきつつ。いやがうへに下[お]り重[かさな]りて。情[なさけ]なくも米吉を手どり足どり呵責[さいなみ]けり。
其時[そのとき]院主[いんじゅ]の端近[はしちか]く下り立[たち]玉ひ。いかに人々静まるべし。譬[たと]へ衒[かたり]盗人[ぬすびと]にもあれ。かくのごとく我が目に掛[かか]れば。是を助け遣[つか]はすべしならひなり。いで其[その]小童[わっぱ]を我に得させよ。とくとく▼出家に為[な]すべしと。尊き声して聞[きこ]え玉へば。下重[おりかさな]りたる人々も。やがて左右へわかれにけり。時に野風は九十九の口一度に笑[ゑ]みて▼こひしの我が子なつかしの米吉や近く寄りませ顔見んと。飛[とび]たつばかり最[いと]うれしげに米吉をさしまねけば。米吉も殆[ほとんど]奇異の思ひをなし。更に不審晴[はれ]ざりしが。我が名をさして米吉と聞[きこ]ゆれば。縁[ゆかり]ある人とも思へど。かかる異形[ゐげう]の女なれば。尋ぬる母の俤[おもかげ]とも。夢さら思ひ寄らざりけり。軍藤六もなを不審[いぶ]かり。いかなる▼譫語[せんご]を云ふにやと。野風が面[おもて]を打守[うちまも]りて暫時[しばし]傍[かたへ]に控[ひか]ふる処に。野風は忽[たちまち]声はり上げ。いかに米吉[よねきち]慥[たしか]に聞け。是なる夫[おのこ]は敵[かたき]鬼塚道見[おにづかだうけん]に仕へたる横島軍藤六と云者[いふもの]なり。▼嘉吉のむかし道見に▼与力して主君の御家を攻亡[せめほろぼ]し。剰[あまつさ]へ我が夫[つま]をも淡路島の南海に沈めしこと斯々[かくかく]とものがたれば。すは一大事を泄[もら]せしよと。軍藤六はあはてふためき。先[まづ]其口[そのくち]を抑[おさ]ゆれば。又他[た]の口よりかたりつつ。大手をひろげて惣身の口々を覆へども。手の泄[も]るるあたりの口は。なを高らかにかたり出[いづ]れば。おさへあぐみて胡乱々々[うろうろ]きょろきょろ十方[とほう]に暮[くれ]て坐したりけり。
なを九十九の口々に語りて云へらく。そも過[すぎ]にし年の春の頃。我が夫[つま]小船に棹[さほ]さして。淡路島の南海に漕出て玉ふが。其日[そのひ]はいつより帰りの程の遅ければ。留主[るす]守[も]る隙[ひま]を待[まち]かねて。姫君諸共御身[おんみ]を将[ゐ]て。浦辺づたひをさまよひしに。思ひがけなく夫の死骸に廻[めぐ]りあひ。悲しき事のうへなきに。又▼悪鳥の飛下[とびくだ]りて。彼[か]の姫君を掴みつつ。▼雲井[くもゐ]をさして翔行[かけゆ]けば。あまりの事に心乱れて。其侭[そのまま]御身[おんみ]をそこに捨置[すておき]。唯[ただ]悪鳥の跡を追ふて。そこともしらずたどりしが。誰[たが]乗[のす]るとなく苫船[とまぶね]の中[うち]にいたりて。漸[やうや]く人心地[ひとここち]つきはべりき。其[その]船中には則[すなはち]是なる軍藤六我を捕へて▼非義非道を搆へしゆへ。悪[にく]さも悪[にく]しとあたりに有[あり]あふ刀を抜[ぬき]て切らんとせしに。さすがは女の力[ちから]及ばず。忽[たちまち]刀を打落[うちおと]され。其上[そのうへ]十分の怒[いかり]にあふて。已[すで]に我を殺さんとて云ひけるは。さこそ刃向ふたるはらただしきを。唯[ただ]一刀に討果[うちはた] さんより。百刀にして殺すべしとあるひは二寸三寸づつ惣身に疵[きづ]つけしが。已[すで]に▼九十九刀にして息たえぬ。其時[そのとき]我が夫[つま]幻のごとくに見[あらは]れ玉ひて。御最後の始末をも▼つばらに語り玉ひにき。されば敵[かたき]は鬼塚道見。はた此[この]軍藤六なることを覚へたり。其[その]鬱憤[うっぷん]を晴さんため。斯[かく]▼軍藤六が妻の身につきそふて。飽くまで憂目[うきめ]を見せけるぞや。九十九ヶ所の口を見よ。真其如[まっそのごと]く疵[きづ]つきて。▼修羅道に赴きたる。我が怨霊[おんれう]の為[な]す業[わざ]なり。元来[もとより]もこの軍藤六夫婦の者は。山賊海賊を▼作業として。多くの人を害せしかば。頓[やが]て▼天網[てんもう]にかからんこと必定せり。さあらぬ先に御身[おんみ]米吉この怨敵[おんてき]を討果して。疾[と]く我々が鬱憤[うっぷん]を晴らしてよ。只此事を告[つげ]んとて年頃御身を待暮[まちくら]し。再[ふたたび]▼娑婆[しゃば]にながらへしぞ。いざさらば又[また][王+炎]王[えんわう]の余弥国[よみこく]にかへるべし。名ごりおし我が子やと。云ふかと見れば忽[たちまち]に。野風は七転八倒して。苦みながらぞ息たえたり。
軍藤六の心中[しんちう]大に驚くといへども。今さら▼包[つつむ]にしのびねば。いさぎよく名乗[なのら]んものをと覚悟を究[きは]め。あたり狭[せまし]とつつ立[たち]上り。▼大音に語りていへらく。いかにも女が申せしごとき覚へあり。されば汝[なんじ]米吉とやらん。速[すみやか]に我と勝負を決すべし。さはいへ必[かならづ]返りうちに討[うた]るるをな恨みそとよ。はやはやかかれといひつつも。大手をひろげて待ちかくれば。心得たりと米吉は。もろ肌をし脱ぎ拳をかため。勇み進んで立[たち]あふたり。時に双方▼土民の姿に打扮[いでたち]たる時節なれば。腰に一[ひとつ]の短刃[たんけん]をだに持[もた]ざりけり。然るに敵[かたき]は名にふれし此[この]兇賊[けうぞく]。米吉は僅[わづか]に拾五才の美少年。其[その]▼剛柔大に異[こと]に見えければ。皆人[みなひと]雲の如くに寄りて。更に是を危ぶまぬはなかりけり。院主は先より。▼彼[か]の女の物語を聞[きき]玉ふて。いと驚き玉へりしが。はてにはかかる一大事を引出[ひきいだ]して。をのづから道場をも穢[けが]すべきおもむきなれば。ひと先[ま]づ是を制すべしとて。左右に下知[げぢ]をつたへ玉へば。徒若党[かちわかとう]を先として。下部[しもべ]の人数[にんず]余多[あまた]出来[いでき]て。両人ともに静まるべしとぞ呼[よば]はりけり。されども▼横島▼赤松は▼耳にもふれず打[うち]あいぬ。右[かく]て四方八面より▼棒ちぎりきをもてきたり。二人が間[あい]に打込[うちこみ]つつ。押隔[おしへだ]て押隔[おしへだ]つれば。米吉いらちて打来[うちく]る棒を突[つき]かへし。或[あるひ]は折[おり]或[あるひ]は蹇[くぢ]き。なを目にさへぎるあたりの人をば。▼手玉の如く左右へ投[なげ]のけ。唯[ただ]横島を遁[のが]すまじとて。少しも▼かなたにめをはなさず。合[あふ]ては別れわかれては。あふて組うつ横合[よこあひ]より。例の鰐蔵裸[あかはだか]に身を為[な]して。一丈余[あまり]の▼回向柱[えかうばしら]を引抜き来[きた]り。米吉を目がけつつ。骨も折れよと投[なげ]つくれば身をかはしてはね遁[の]きながら。回向柱を宙にて掴み。是[これ]究竟[くっきゃう]の得物[えもの]よと。取直してあたりを払へば。軍藤六も飛上りて。くだんのはしらに両手をかけ。わたさじものをと引[ひき]もどす。米吉は又はなさじとて。右[みぎ]りに捻[ねぢ]れば左に捻[ねぢ]。引[ひき]つ引かれぬ有様は▼仁王の力だめしかと。見る人[ひと]▼胆を冷してけり。斯[かく]と見るより鰐蔵は。傍[あたり]に落散[おちち]る手来[てごろ]の棒を拾取[ひろひと]り真甲[まっこう]にさしかざして。米吉が後[しりへ]より。唯[ただ]一うちと打[うっ]てかかれば。叶難[かなひがた]くやおもひけん。米吉は飛[とび]しさりて其侭[そのまま]姿は失[うせ]にけり。
扨[さて]軍藤六鰐蔵の両人は。手もちぶたさに立蹲[たちずくま]り。あたりに眼[まなこ]を配れる処に。不思議や大なる▼香盤[かうばん]の。自然に揺[ゆる]ぎ出[いづ]ると見えしが。地をはなるる事[こと]五尺にして下より米吉あらはれ出[いで]。斯[か]く▼指上[さしあげ]たる香盤を。軍藤六に投付[なげつく]れば山のごとくに盛たる灰の。霧の如くに降りかかりて。目にも口にも紛々と乱れ入りぬ。是故[このゆへ]に軍藤六も鰐蔵も。▼寸前をだに分[わか]つこと能[あた]はずして。をのづからわかれのけしきに見えたりけり。しすましたりと米吉は。▼縁[ゑん]の綱を引切[ひききっ]て鰐蔵が頭[かうべ]に打[うち]かけ。力まかせに引倒して吭[のどもと]を〆[しめ]つくれば。さしもの鰐蔵たまりかね。或[あるひ]はもがき或[あるひ]は苦しみ。忽[たちまち]七転八倒して。うんとばかりに息絶えたり。軍藤六斯[かく]と見て。心頭より怒[いかり]を発し。云ひ甲斐[がひ]なき鰐蔵が身の果[はて]や。見よ米吉速[すみやか]に汝が息の音[ね]留[とむ]べきぞと。▼闇[くら]める眼[まなこ]を押開[おしひら]き。最[いと]苦しげに傍[あたり]を覘[にら]めば。米吉▼莞爾[くはんじ]と打笑[うちわら]ひ。手の鳴る方へ来[きた]るべしとて。彼方此方[かなたこなた]を立廻[たちめぐ]れば。追[おひ]つまくりつ軍藤六が。心のやたけにはやれども。眼中尽[ことごと]く灰を含みて。▼認[みとむ]ることのかなはねば。歯噛[はがみ]を為[な]してどうと坐し。唯[ただ]無念やと打喚[うちさけび]ぬ。米吉は又例の回向柱を引提[ひっさげ]来[きた]り。軍藤六に向ひて云へらく。汝我が母を九十九刀に▼殺害[せつがい]せり。其[その]返報に。今又汝を九十九打[うち]て殺すべきぞと。やがてはしらをふり上[あげ]つつ。丁々と続け打[うち]に打居[うちすゆ]れば。あとさけび。あと喚[さけ]びて。人目も恥ずのた打[うち]けり。十[とを]づつ九つ。また九つと算[かぞ]へ畢り[おは]て。くだんの柱を手いたくうてば。そこともしらず咲花が声として。心地よやといふかとおもへば。軍藤六は眼[まなこ]抜出[ぬけいで]口より鮮血[なまち]を走らかして。漸[やうや]く▼地獄へ赴きけり。かかりければ院主を始[はじめ]奉りて。并居[なみゐ]たる数百[すひゃく]の面々。参詣人[さんけいびと]の上下となく。米吉を誉[ほむ]る声。しばしは天地を動かしけり。
其時[そのとき]院主は米吉を近く召[めさ]れ。是に告[つげ]ての玉ふやう。汝▼若年たりといへども。不思議に力量▼凡ならず。なを▼至孝[しかう]にして親の仇[あだ]を斃[たほ]せること。感ずるに又あまりあり。併[しかし]ながら固[もと]より▼公[おほやけ]に訴へたる復讐ならねば。たとへ敵[かたき]は国賊にもあれ。私[わたくし]に害せしうへは。中々に其罪[そのつみ]を蒙[かうむ]らんもはかるべからず。なをいまだ君父の仇[あだ]なる鬼塚道見をも尋ぬべく。また彼[か]の姫の行衛[ゆくゑ]をも探すべければ。汝唯[ただ]速[すみやか]に茲[ここ]を去れ。汝が母。はた討れたる者共をば。我[われ]懇[ねんごろ]に跡とひて。頓[とみ]に▼仏果[ぶっくは]を得さすべし。唯々[ただただ]汝速[すみやか]に去るべしと。尊き命を受[うけ]にたれば。米吉院主を臥拝[ふしおが]み。あら有[あり]がたやさらばとて。已[すで]に行[ゆく]べき身がまへして。甲斐々々しく立上るを。院主は暫[しばし]と留[とど]め玉ひ。ひとり大に嘆息[たんそく]しての玉はく。我[われ]偏[ひとへ]に過[あやまち]たる一条あり。昨夜観音の霊夢によりて▼九十九口の者を尋[たづね]。一度[ひとたび]女に彼[か]の金[こがね]をば与へしが。風[ふ]と是を考[かんがふ]るに。渠[かれ]は必[かならず]九十九口の者にては無かりしなり。そのゆへ如何にとなれば。咲花が怨霊にて生ぜし口九十九なれば。固[もと]より▼面部に具したる口の一[ひとつ]を合せて。こは▼百口[ひゃくこう]のものといふべし。真の九十九口の者と云へるは。独[ひとり]汝が事にてありしぞ。現々[ゆめゆめ]疑ひ有るべからずと示し玉へば。米吉大に驚きあはてて。扨[さて]は又軍藤六が怨霊の我が身に添[そふ]て。あまたの口の生ぜしこともやはべるべしと。自[みづから]懼[おそ]れて面[おもて]を撫[なで]。左右の手足を顧[かへりみ]れど 。一点の疵[きづ]なければ。いかなる事をの玉ふにやと。心中に不審[いぶかり]つつ。黙然[もくねん]として控ふるところに。院主重ねて告[つげ]玉はく。夫[それ]九十九は▼陽数也。陽あれば必[かならず]陰あり。されば九十九に配するものは八十八也。八十八則[すなはち]▼米の字なり。凡[およそ]陰数尽て陽数又起る。是[これ]天地自然の理にして。陰数は十に終り。陽数は一に始る。是[こ]の十と一とをもて八十八に配するときは。則[すなはち]九十九の数となれる。下に口を加ふれば。唯是[ただこれ]▼米吉の文字[もんじ]なり。はた汝先に彼[か]の胴巻を見て云へらく。くだんの金[こがね]を落[おと]せし主は我なりと。されば観音菩薩の夢枕に立[たち]玉ふも。落せし主にかへせとの御告[おんつげ]なるべし。今又思ふに。彼[か]の百口の女に是を与へしも。汝に敵[かたき]をを討[うた]しめ玉はん観世音の方便力[はうべんりき]と覚ゆるなり。いで御ほとけの告[つげ]玉ふ。汝に金[こがね]を与ふべしとて。野風が死骸のもたりける胴巻をとり出[いだ]して。米吉に是を授け玉へば米吉はらはらと涙を流して。▼金[こがね]の出所[しゅっしょ]をものがたり。なを観音をふし拝み。院主を仰ぎて恩を謝し。やがてぞ茲[ここ]を立去[たちさ]りけり。
第六齣
此段[このだん]播州[ばんしう]室之津[むろのつ]に名を残せる。名妓[めいぎ]▼竹庵[ちくあん]花漆[はなうるし]といへる姉妹[あねいもと]の古墳にたよりて。其[その]事跡を挙るといへども。事繁[ことしげ]きをもちて省く。願はくば後編に述[のべ]て賢覧[けんらん]に備ふべし是より▼第七齣[だいしちせき]に至るまでの間[あいだ]已[すで]に又五年[いつとせ]の▼星霜を重ぬと見玉ひね
扨[さて]米吉は先のとしに観世音より身の代の金[こがね]を授り。これをもて▼勘太[かんた]がもとの暇[いとま]を乞[こひ]。其後[そののち]▼播州室の津に徘徊して。敵[かたき]鬼塚道見[おにづかだうけん]が▼行方[ゆきかた]を尋ぬといへども。いまださるべき手がかりもあらざりければ。是より諸国を遍歴して命のかぎり尋ぬべしと心を発し。まづ一度[ひとたび]当国を立去[たちさら]んと。仮に住[すみ]たる室[むろ]の辺[ほとり]を跡になし。ある山里に差掛りぬ。此時[このとき]已[すで]に米吉は元服して。名を赤松春之[あかまつはるゆき]と呼[よび]てけり。年ははや二十[はたち]に成りたり。されば又力量も大にまさり。いよいよ剣法の奥義を究[きはめ]て。其[その]武勇。父春時[はるとき]より遥に越へ。実に▼万夫不当[ばんぷふとう]の豪傑とぞ聞[きこ]えける。
扨[さて]此[この]山里をたどりつつ行き行きたるが。向ふを見れば一搆[ひとかまへ]の▼大荘[たいそう]あり。門には五十人の▼下司男[げすおとこ]が。白木造りの殻輿[からごし]を荷[にな]ひ来て入るさまなり。皆[みな]面[おもて]に患[うれ]ひを含んで。其形しめやかなれば。扨[さて]は此家[このや]に▼新喪[しんそう]のあることよと。よそながら無常を感じ。何心もなく近づきて其[その]子細を尋ぬれば。彼[か]の男答へて。此家[このや]より▼人身御供[ひとみごくう]の出[いづ]る日にてはべるといふにぞ。春之は最[いと]不審におもひ。いかなる者に捧[ささぐ]るにやとたづぬれば。▼山神[さんじん]に捧[ささぐ]るなりとてみなみなやしきのうちに入りぬ。右[かく]て春之つくづくと思ふやう。実[げ]に世の中には心得ざる事こそ多けれ。▼神明のかく人をとり喰[くら]ふ謂[いは]れやはある。▼何にまれ。かかる事の始末を見んは。話の種にもなりぬべければ。今宵[こよひ]この家[や]に宿をとりて。人身御供のおもむきを▼明[あきら]めんと折[おり]ふし日も暮[くれ]がて成[なる]を幸[さいわひ]に。つと入りて一夜の宿をもとめたきよし云ひ入るれば。主[あるじ]も情[なさけ]あるものにやありけん。疾[と]く▼肯[うけが]ひて一間[ひとま]に通しぬ。
右[かく]て春之は此家[このや]の様子を窺[うかが]ふに。親族尽[ことごと]く寄り集[つど]ひて。彼[か]の▼御供[ごくう]に備[そなは]る人のわかれを惜み。或[あるひ]は泣[なき]或[あるひ]は喚[さけび]て時刻の来ぬるを悲むさまなり。兎角[とかく]してこなたに主の出来[いでき]たれば。春之も最[いと]丁寧に今宵の恩を謝し畢[おは]り。頓[やが]てかの人身御供の謂[いは]れを問へば。主答へていふ。そも此地[このち]は▼連山[れんざん]波の如くにして一の谷に続きたるが、其間[そのあいだ]に往古[むかし]より山神[さんじん]の住[すみ]玉ふといひならはせり。然るに近来人身御供を備ふる事の始りしが。いかなる方の児[こ]にてもあれ。▼眉目[みめ]よき女としいへば。大かた御供にそなはる事に定[さだま]りぬ。時として其家[そのや]の軒に▼白羽の矢一筋[ひとすじ]来たりて立[たつ]事あれば。正に是を▼神託[しんたく]と崇[あが]め奉りて。翌日[あくるひ]の初夜を相図[あいづ]に。かの山中に持ちゆくなり。我も一人の嬢[むすめ]をもたるが。夜辺[よべ]我が軒にくだんの矢ひとつたちさふらへば。則[すなはち]今宵の初夜を待[まち]てかしこに送りはべるなりと。涙を流して語りければ。春之も主の心を推量[おしはか]り。共に愁[うれひ]を催したり。時に春之答へていへらく。我[われ]先にも思へるごとく。固[もと]より神明の。かく罪なき人を害すること。謂[いは]れなきに似たるべし。察する所[ところ]果[はた]して▼魑魅魍魎[ちみもうりゃう]の業[わざ]なるべければ。速[すみやか]にかの▼変化[へんげ]を退治せんはいかにぞや。われにあまたの▼勢子[せこ]をだに貸し玉はば。今宵▼阿嬢[あじゃう]の輿[こし]に添ふてかしこに行き。山神の正体を見顕[みあらは]して。若[もし]▼魔魅[まみ]の類ならば。生捕[いけどり]て後[のち]の患[うれひ]を除くべし。主の心[こころ]如何にと云へば。否々[いないな]さやうに心得玉ひて。▼御罰[ごばつ]をな蒙[かうむ]り玉ひぞ。先のとしも▼武者修行に出[いで]たる人の。他の家に泊[とまり]たるが。其[その]折しも人身御供を備ふべき時節にて。今宵君がの玉ふ如く。変化のものを退治せんと。勢子を倶[ぐ]して彼[か]の山に上れるに。山神大に荒[あれ]玉ひて。震動稲妻天地に満[みち]。なを雷鳴の烈しき中に。情[なさけ]なくも修行者は。引裂かれて失[うせ]はべりぬ。右[か]く恐ろしき例[ためし]もあれば。必[かならず]懼[おそ]れ慎しむべき事にこそ。唯[ただ]思[おぼ]しとどまり玉へと。あながちに否[いな]みつつ。さらに▼肯[うけが]ふ気色[けしき]とも見えざりけり。春之は此[この]ものがたりを聞[きき]しかど。▼大丈夫の魂なれば。露ばかり事ともせず。▼ひたもの正体を見顕はさんと思ひければ。なを主にむかひていふ。さあらば只[ただ]山神[さんじん]を生捕ることは為[す]まじきなれど。今宵[こよひ]宿かりし因[ちなみ]によりて阿娘[あじゃう]をかしこに送るべし。唯此事を許し玉へと懇[ねんごろ]に聞[きこ]ゆれば。主も泣[ない]て唯[いらへ]にけり。
かくて初夜の程近ければ。内外[うちそと]の人々声をはなちて。ひと歎[なげ]きに歎くなる。主もいといと心せはしくかなたの一間[ひとま]に急ぎ入りぬ。其[その]あはれ謂[いは]んかたなく。偏[ひとへ]に客[かく]の▼腸[はらはた]を断[たち]にけり。されば春之も▼脚絆[きゃはん]の紐を〆直[しめなを]し。帯▼かたがたと引結び。見送る支度をととのふ所に。思ひがけなき一間[ひとま]のうちより。下部[しもべ]の若者十人ばかり▼どろどろと走り出[いで]。みな。はや縄を用意して。春之をまんなかにおっとりこめ。▼動くまじとぞ呼[よば]はりけり。春之は如何なる事とも分[わか]たざれば。まづ其故[そのゆへ]を問[とは]んとするに。主の声と覚[おぼし]くて。汝[なんじ]盗賊むかし讃州新珠島に徘徊して往還を刧[おびや]かせし兇徒[きゃうと]よないかなれば今[いま]此所[このところ]に来[きた]りしぞ。かかるこそ汝が▼運の究[きは]めなれ。疾[と]くいましめを受くべしとて。いきまきあらく[(句-口)+言][ののし]りつつ。腰に一刀を横たへ出[いづ]れば。春之もなを不審晴れず。主にむかひて云[いひ]けるやう。斯[か]く我に▼無実の名を負[おは]し玉ふは正[まさ]しく子細ぞさふらふべき。いかなる事を証[せう]として。さは云ひ玉ふと問[とひ]かへせば主はなをも怒りを為[な]して。実[げ]に猛々[たけだけ]しき盗人[ぬすびと]かな。今[いま]汝が傍[かたはら]に懐中より取出[とりいだ]せし胴巻を見よ。そは我が▼好事[ものずき]にて織らしめたる木綿[もめん]なり。なを其[その]はしに▼小切[こぎれ]を縫[ぬひ]つけ。わが筆にてしるし置[おき]たる。幡山氏[はたやまうぢ]の三字あり中にはたしかに弐拾余の。数の小判を入れ置[おき]ぬ。或[ある]夕暮の事なるに二三人の▼奴僕[ぬぼく]を▼引倶[ひきぐ]し。彼[か]の所を通行せしに。▼賊首と覚しき大男[おほおのこ]がかたへの松の木蔭より顕はれ出[いで]。無二無三に奴僕等[ぬぼくら]を切倒し。我が衣服及び其[その]胴巻までうばひとり。もとの木蔭にかくろひしが。われは固[もと]より剣術の一手をだに知らざれば。是に刃向ふ力もなく。唯[ただ]辛[から]うじて。迯[に]げかへりぬ。今也[いまや]汝が言葉を聞くに。山神をだに恐れざる不敵と云ひはた彼[か]の胴巻を所持なせしは。正しく兇徒に疑ひなし。いざ縄掛[かか]れと▼堰[せき]たつれば。
春之しばしと左右をとどめ。主を仰[あふぎ]て平伏[へいふく]して謂[いっ]て云[いは]く扨[さて]は我[わ]が恩人にて有[あり]けるよ。唯[ただ]君に申し演[のべ]たき一条あり。そも我が▼幼[いとけ]なかりし時。故ありて賊の為に人買人[ひとかひびと]の手にわたり。むなしく月日を過[すご]せしかど。固[もと]より▼大望[たいもう]を思ひ立[たち]たる身にしあれば。何卒[なにとぞ]其[その]本懐を達せんと。讃州支度寺の観世音に▼祈誓[きせい]をかけて。▼日ごとに歩みを運ぶ所に。ある時新珠島の辺[ほとり]にて。松の根もとに休らひしが。くだんの松の洞[うろ]の中[うち]に。人の屈[かが]める有様なれば。当時此[この]往還に人を悩ます盗賊なめりと。手をさし延[のべ]て。掴み出[いだ]せば。人にはあらで三重[みかさね]程の衣服なり。下よりは二十又余[ゆうよ]の金[こがね]の入りたる。彼[か]の胴巻を引出[ひきいだ]しぬ。こや正[まさ]に賊の奪へる財宝と覚ゆれば。最[いと]忌々[いまいま]しき物に思へど。我に此金[このこがね]あらば。人買人に是を償[つぐの]ひ。身を転じていよいよ大望を思ひ立[たつ]べき者をと▼思惟[しゆい]し。よし我[われ]邪[よこしま]なる心より求[もとむ]る金[こがね]にあらざれば。やがて本懐を達せし後。かく奪[うばは]れたる主をもたづね。恩を謝して返すべし。唯[ただ]其時[そのとき]の証[しるし]にと。常に肌身をはなしはべらず。此[この]胴巻を所持せしなり。唯[ただ]恐らくは我[われ]未[まだ]本懐を達せざれば。金[こがね]を酬[むく]ひ奉るべき手段なし。さいはへ君といふ事の知れたるうへは。いかにもして一度[ひとたび]▼恩を報ずべし。願はくば▼しばしがほどをまち玉へと。理[ことはり]せめて聞[きこ]ゆれば。其[その]弁舌の爽[さはやか]なるに主も忽[たちまち]心解け。いかにも汝が言葉の端々[はしばし]。▼蟠[わだかま]れる処なければ。をのづから賊ならざる事[こと]明らけし。されば金[こがね]も一度[ひとたび]賊の手に奪はれたる後[のち]なれば。たとへ汝が拾ひ得て。身の代に為[な]せりとも。是を我に償[つぐの]ふべき謂[いは]れなし。我[われ]過[あやまち]て汝を賊徒と思へばこそ。縛[から]めても▼糺明[きうめい]せんとはかりしなり。者共[ものども]引けと下知[げぢ]すれば。詰寄[つめよ]せたる下部[しもべ]のやからは。やがて左右へ別れにけり。春之は左[さ]と聞[きく]より。天に仰[あふ]ぎ地に臥しつつ。恩を謝するに言葉なく。只[ただ]泣[なき]に泣[なき]たりけり。
はや彼[か]の御供を送り出[いづ]べき時刻ぞと。主も是を急がすれば。上下の人々混乱し。輿[こし]をおもてにかき出しぬ。春之は頓[やが]て主に別[わかれ]を告[つげ]。此輿[このこし]の▼跡辺[あとべ]に添[そふ]て歩みにけり。程近き傍[あたり]よりは。老若男女集[つど]ひ来[きた]りて是をおくる。其[その]悲しみ切[せつ]にして▼袖[そで]しぼらぬはなかりけり。扨[さて]山中[さんちう]を三里ばかり行[ゆき]たるに。爰[ここ]より山神の祠[ほこら]ある所までは。▼輿[こし]かきの外[ほか]。他[た]の人の行く事を禁じたるよし云[いひ]て。皆[みな]乱々[ちりぢり]に別れ行けば。春之ひとりせんかたなく。唯[ただ]見え隠[がくれ]につき添[そふ]べしと。闇[あん]に思案を廻[めぐ]らしつつ。▼徐々[じょじょ]としてなを随ひ行けるが。程なく祠のまへに至れば。そこそこに輿を居置[すへおき]。▼かき来[きた]れるおのこどもは。跡をも見ずして迯[に]げかへりぬ。
頃しも長月[ながつき]の半[なかば]なれば。空晴わたりて月もすみ。最[いと]▼物冷[ものすご]き山林[さんりん]の気色[けしき]なるに。春之は傍[かたへ]の木蔭に身を潜[ひそ]め。只[ただ]山神の正体を見あらはして。折[おり]よくは彼[か]のものを退治なし。ひとへに恩人の嬢[むすめ]を助けかへらんものをと。一心におもひ居[お]れるが。不思議や。俄[にわか]に暴風[ぼうふう]起り。今まで晴たる中天[なかぞら]の。一面にかき曇[くも]りて。彼[か]の主の物語に違ひなく。震動稲妻天地に満[みち]。大雨[たいう]盆を傾[かたむく]るが如くなれば。さすがの春之大に懼[おそ]れ。暫時[しばし]十方[とほう]に暮[くれ]たりしが。よし魔神の我を裂[さく]べき所存ならば。我も又魔神を裂かん手段[てだて]あり。あはれいかなる妖怪[ようくはい]にても出来[いでこ]よと。例の如くに拳[こぶし]をかため。奮然として立[たち]たる所に。遥にかなたの山間[やまあひ]より。一焔[いちえん]の▼団火[だんくは]▼中有[ちうう]に爛[きらめ]き。忽[たちまち]▼祠前[しぜん]に飛来[とびきた]りてかの居置[すへおき]たる輿の上にとどまりたり。兎角[とかく]して白髪[はくはつ]たる老翁[ろうおう]の。面[おもて]は鬼のごとくなるが。腰に長剣[てうけん]を帯[おび]。手に鉄杖[てつぜう]をふりかたげて。▼巍々然[ぎぎぜん]と出来[いでき]たれば。次第に団火の数もふへて。跡にはあまたの眷属を引連[ひきつれ]たり。老翁のうへには。いと大なる雨傘をさしかけぬ。
扨[さて]老翁が輿の扉を押[おし]ひらけば。裡[うち]に坐したる麗人の。身に尽[ことごと]く白衣[びゃくゑ]を着[き]。眼[まなこ]を閉[とぢ]て合掌しぬ。年は▼二八計[にはちばかり]と覚しく。其[その]顔色[がんしょく]の艶[えん]なること。実に譬[たと]ふるに物なければ。老翁頻[しきり]に歓[よろこ]びて。やがて又輿の扉を▼押[おし]たてて。いでいで者共[ものども]かなたへ荷[にな]へと下知[げぢ]すれば。かなたにひかへし春之が。▼さし足してはたと近づき。輿の長柄[ながゑ]に両手[もろて]をかけて。大磐石[だいばんじゃく]と動かさねば。老翁を始[はじめ]として眷属も皆[みな]驚天[ぎゃうてん]し。汝[なんじ]如何なる者なれば。かく人間の通はぬ方に来[きた]りしぞ。疾[と]く疾[と]くかへれと[(句-口)+言][ののし]りたり。其時[そのとき]春之此[この]ものどもの様態[やうだい]を窺[うかが]ひ見るに。是[これ]紛[まぎれ]もなき山賊なれば。始[はじめ]て安堵[あんど]の思ひを為[な]し。よし尽[ことごと]く退治して。此[この]▼少婦[せうふ]を救ふべしと。忽[たちまち]あたりに心を配り。無二無三に腰なる刀をぬく手も見せず。当る所の▼小賊等[せうぞくら]を五三人切り倒せば。老翁怒[いかっ]て。あれ曲者[くせもの]を切[きっ]てすてよと。前後左右に下知をつたへ。身は大木を小楯[こだて]にとりて。悠然とひかへ居たり。是にしたがふ兇賊等[きゅうぞくら]は。手々[てで]に刀を抜[ぬき]はなして春之を目がけつつ。宛[あたか]も大浪の岩にあたりて砕くる如く。火花をちらして戦へば。あたりに飛[とび]かふ団火とみえしも。皆残りなく消[きへ]えはてて。▼真[しん]の闇夜[あんや]となりたりけり。
扨[さて]此[この]団火は▼硝子[びいどろ]もて表を張り。裡[うち]に▼燭[ともし]を点じたるを。多く小賊らにもたしめけるが。戦[たたかひ]の急なりければ。皆をのづからとり落[おと]したるにこそ。雨の降ることいよいよ頻[しき]りに。風[かぜ]烈[はげし]うして古木[こぼく]を鳴らせば。空にも鯨波[ときのこゑ]たてて。物冷[ものすさま]しくぞ聞[きこ]えける。斯[かく]て▼物のあやめも分[わ]かねば。春之は唯[ただ]輿を守護して。夜叉のごとくに立居[たちゐ]たり。又賊徒等[ぞくとら]は此[この]▼外人をうたんとて。各[おのおの]武具を調[ととの]へつつ。一度にどっと喚[おののい]てかかれば。さすがの赤松春之も。進退をのづから度[ど]を失ひ。已[すで]に危[あやう]く見えたる所に。忽[たちまち]四方八面より。勢子[せこ]の大勢[おほぜい]宛[あたか]も迅雷[じんらい]の落来[おちく]るごとく。彼[か]の賊徒等[ぞくとら]を切りたて切りたて。すきまもあらせず攻[せめ]たりしが。▼須臾[しゅゆ]に一人[いちにん]も残りなく。鏖[みなごろし]にぞ為[な]したりけり。これに気を得て春之は。▼常姫[つねひめ]もろとも道見に討[うっ]てかかれば。実[げ]に道見が天罰を蒙[かうむ]りぬべき時なりけん。彼[か]のぬきもちたる▼飛竜丸の宝剣を打落[うちおと]され。十方[とほう]に暮[くれ]て立[たっ]たる所に。日頃の本望[ほんもう]此時[このとき]ぞと。常姫は。つと駆寄[かけよ]り。懐剣を逆手[さかて]に持[もち]て。道見がかたの股腹[わきばら]より。胸板[むないた]かけて突通[つきとを]せば。春之見るよりほとほと歓び。怪我[けが]ばしあるなと云ひつつも。持[もち]たる太刀[たち]をとり直し。猶[なを]道見が馬手[めて]のあばらに突貫[つきつらぬ]きぬ。
されば道見眼[まなこ]を怒[いか]らし。あら無念口惜しやと。髪[かみ]逆立[さかだっ]て▼呼[よばは]りいふ。我[われ]一度[ひとたび]足利家を亡[ほろぼ]さんと謀りし故。密[ひそか]に味方をかり集め。なをそこばくの軍用金を貯へしも由[よし]なし事となりけるよ。迚[とて]もかく運命の[きはま]るうへは。汝等[なんじら]をも残[のこり]なく。▼冥途[めいど]の鬼と為[な]すべきぞ。いで道見が最後の手並[てなみ]克[よ]く見よと。弓手[ゆんで]に馬手[めて]に手をさしのべ。▼二人が拳[こぶし]をひたと掴んで。突貫[つきつらぬき]たる刃[やいば]をもちそへ。さっと左右へ引抜けば。血は▼渾々[こんこん]とほとばしりて。大地も朱[あけ]に染成[そめな]したり。二人はすかさず切る太刀に。さしもの道見たまりかね。がばと前にぞ倒れにけり。ここちよしと春之が。走り寄って首[かうべ]を刎[はね]れば。常姫は又[また]傍[かたへ]に落[おち]たる飛竜丸の宝剣をとり上[あげ]つつ。塵[ちり]を払って▼押[おし]いただき。鞘[さや]の中[うち]に収めければ。不思議や虚空に翔廻[かけめぐ]れる飛竜の姿も消[きゆ]るが如く。俄[にわか]に雨晴[あめはれ]雲収[くもおさま]りて。もとの月夜[げつや]と成りたりけり。是[これ]固[もと]より宝剣をぬきはなして自在に風雨[ふうう]を呼[よび]たるなるべし。
斯[かか]るところへ常姫の父と聞[きこ]えし家主[いへあるじ]が甲斐々々しく身を堅め。十人計[ばかり]の美女を伴[ともな]ひ。歓び勇んでかけ来[きた]れるが。遥に下[さが]って平伏[へいふく]し。先[まづ]万歳[ばんぜい]をぞ唱へにける。常姫は夫[それ]を見て。父上何とて此所[このところ]にはおはせしぞ。わらはは不思議の命を助かり。剰[あまつさ]へ是なる赤松春之の蔭[かげ]をもて。むかしの父の仇[あだ]をさへ報じぬと。事の始末は分[わか]ねども。先[まづ]歓びを告[つげ]たりければ。又[また]家主[いへあるじ]が打[うち]うなづき。仰[おほ]せまでもさふらはず。今宵は我も見え隠れに。君が輿に付添ひ来[きた]り。あれなる木陰に潜[ひそ]み居て。事の由[よし]をばのこりなく承りさふらひぬと。やがて春之に対していへらく。そも我は幡山五次兵衛[はたやまごじへうゑ]と申すものにてさふらふが。▼先叡[せんえい]より赤松家の御領地にて村長[むらおさ]の役目を蒙[かう]むり。家名[かめい]もをのづから連綿と絶[たえ]ざりしが。常祐[じようゆう]公の御代[ごだい]に当りて。鬼塚道見が▼讒[ざん]により。不慮[ふりょ]に御家滅亡[おんいへめつぼう]の刻[きざみ]より。右[か]く当国の▼山家[さんか]に隠れて時節の至るをまちはべりぬ。然[しか]るに不思議の事ありしは。其頃[そのころ]砌[みぎり]の楠[くす]の梢[こずへ]に。大なる熊鷹[くまたか]の。一人の小児[せうに]を掴み来[きた]りて。暫[しばら]く羽を休むと見えしが。彼[か]の鳥や過ちけん。くだんの小児を木のもとにはたと落しぬ。下にはさいはいあまたの藁[わら]を積置[つみおき]たれば身も▼恙[つつが]なく▼まろび居たるを。走り寄りて取上げ見れば。幼けれども▼容顔[やうがん]殊に美[うるは]しく。▼手のしなへ足の繊[ほそ]やかなるも。如何様[いかさま]▼由[よし]のある人の子と見えはべれば。先[まづ]家に懐[いだ]き入れて。妻にもかくと物がたるに。妻も又いつくしむことかぎりなく。なをいまだ子といふものあらざれば。やしなひたてて。子にすべき心にて。いよいよ▼寵[てう]を加へはべり。斯[かく]て此子[このこ]の懐[ふところ]を見れば。錦[にしき]の袋をもたるゆへ。そをとりいだして披[ひら]き見るに。▼種々[くさぐさ]の御守[おんまもり]を入置[いれおき]たり。其中[そのなか]に正[まさ]しく赤松常祐公の姫君と知りぬべき。▼水茎[みづくき]の跡さへ見ゆれば。扨[さて]は主君の姫君にておはせしよと。殆[ほとんど]奇異の思ひを為[な]し。且[かつ]驚き且[かつ]悲[かなし]んで。先[まづ]御在所[おんありか]を問[とは]んとすれど。東西をだに分[わか]ち玉はぬ幼君なれば。如何にともせんかたなく。只もりたて奉るには如[し]くべからずと。世に憚[はばか]りて我が子と号し。日に月に帥[かしづき]しが。光陰早きならひにて。今[いま]姫君の御年[おんとし]は十七歳にぞ度[わた]らせ玉へり。此[この]姫君の赤松家にて誕生ありしは。▼そのかみ▼永享[えいけう]十一年の春なりき。よて御年[おとし]をば知りはべりぬ。されば御父[おんちち]常祐君[ぎみ]は道見が讒[ざん]にあふて亡[ほろび]玉ひし始末迄。兼[かね]て御聞[おんきき]に達せしかば。いかにもして其[その]仇[あだ]を報ぜんと。しばし御心[おんこころ]を安んじ玉はず。そをのみ患[うれ]ひ悲しみ玉ひつ。然[しか]るに此[この]ほど思ひよらずも生贄[いけにへ]の沙汰ありけるに。賊の▼所為[しょゐ]とは夢にも知らず。唯[ただ]山神の託宣[たくせん]とのみ心得[こころう]れば。御身代りをもて備へんも。御罰[ごばつ]のほどの恐ろしく。神事[じんじ]をいかに為[な]すべきと。偏[ひとへ]に心を痛めしかど。よし神明の冥感[めうかん]あらば。事のよしをあらはに告[つげ]て。御命[おんいのち]を乞[こひ]奉らん。若又[もしまた]納受[のふじゅ]あらざる時は。譬[たと]へ蛇[じゃ]にても鬼にても。彼[か]の神体を討果[うちはた]し。えこそは姫をわたさじものをと。たちまち御罰[ごばつ]をかへり見ず。命にかへて覚悟を究[きは]め。勢子[せこ]を集めて謀計[はかりごと]を廻[めぐ]らす所に。君はからずも今宵わが家に憩[いこ]ひ玉ふて。かうかうの物語に。彼[か]の山神を退治せんとの玉ひしが。我[われ]思ふに。此神[このかみ]必[かならず]生贄をとる時に外人の至る時は。忽[たちまち]雨を呼び風を起[おこ]して。屡[しばしば]人を害すれば。容易に行[ゆき]て災[わざはい]を引出[ひきいだ]さんも計るべからず。唯[ただ]止[とどむ]るに如[しか]じと思ひて。我が愚[おろか]なる心より。かかる英雄豪傑を知らずして。再三止[とど]め奉りしかど。君[きみ]強[しゐ]て山神を退治すべきおももちなれば。をのづから加勢を得たる心地にて。いよいよ▼勢子の手分[てわけ]を定め。▼遠巻[とうまき]に山をとりまき。木陰々々に是を伏せて。今や遅しとまつ所に。白髪[はくはつ]たる老翁の。いかめしく出来[いでき]たれるが。面[おもては]正[まさ]しく新珠島にて我を剥[はぎ]とる盗賊に紛[まぎれ]なければ。心中に是と怪しみ。しばし様子を伺[うかが]ふ所に。君[きみ]忽[たちまち]見[あらはれ]玉ひて。姫ぎみもろ共[とも]不思議に日比[ひごろ]の本望を達し玉ひ。赤松家の重宝[てうほう]たる。飛竜丸の御物[ごもつ]迄。再[ふたたび]姫君の御手[おんて]に入ること。実[げ]に此[この]うへの御歓[おんよろこび]やさふらふべき。時にうしろの山間[やまあひ]より。あまた女の泣喚[なきわめ]きて。只[ただ]われわれをも助けてよと聞こゆれば。疾[と]く行[ゆき]て子細を問ふに。是[これ]尽[ことごと]く生贄に備へられたる美女たちにて。皆[みな]我[わ]が知れる方々[かたがた]の娘なりき。則[すなはち]茲[ここ]に引具[ひきぐ]してさふらひぬと。一同に首[かうべ]を下[さぐ]れば。勢子の面々歓び勇みて▼万歳楽[まんぜいらく]と 扨[さて]春之は此[この]ものがたりをきくからに。始[はじめ]て愁眉をひらきつつ。かくてあるべきことならねば。時[じ]こくうつらぬ其先[そのさき]に家路をさしていそぐべし。五次兵衛いざいざ案内[あんない]と。先[まづ]道見が頭を掴んで。常姫もろとも立上れば。五次兵衛なをも小躍[こおどり]し。あまたの美人を是に随へ。勢子[せこ]の人数[にんじゅ]に下知[げぢ]をつたへて。前後左右を守護せしめ。凱歌をうたふてかへりにけり。
其後[そののち]京都の▼将軍家に訴[うった]へ出[いづ]れば。此時[このとき]▼足利義政[あしかがよしまさ]公の御代[みよ]に当りて。大に四海[しかい]に徳政を施[ほどこ]し玉ひ。一国平均の折柄[おりから]なるに。なをかかる目出たき例[ためし]は。いよいよ安全長久の基[もと]ひぞとて。頓[とみ]に春之常姫の両人を京都に召[めさ]れ。尽[ことごと]く御感の余[あまり]。則[すなはち]赤松常祐の▼本領を。のこりなく返し与へ玉ひにけり。春之が常姫を妻女に為[な]すべき上意を蒙[かうむ]り。▼千々[ちぢ]の黄金[こがね]を頂戴して。首尾よく御前[ごぜん]をまかん出[いで]ぬ。かくて春之赤松家を▼再興しければ。謹[つつしん]で常祐の霊を祭り。父母[ふぼ]の碑[ひ]を支度寺に立[たて]て。彼[か]の院主[いんじゅ]には幾庶[そこばく]の施物[せもつ]を送りぬ。幡山五次郎兵衛には千ヶ所の田地[でんち]を与へて。なを是に尽[ことごと]く領国を守らせけり。扨又[さてまた]道見に奪はれたるあまたの美女をば。先達[さきだっ]てその家々におくり返せば。親族の歓[よろこ]べること大かたならず。後に此[この]美女達は。皆[みな]常姫に仕へてけり。されば春之常姫は。▼身を安うして▼錦衾[きんきん]の上に坐し。緞帳[どんてう]の中[うち]にむかしをかたれる。此[この]▼いもとせの天縁奇遇。千代に八千代に。量りなく。目出度[めでた]かりける例[ためし]とぞ今の世までも聞[きき]伝富[つたふ]
巻之三 大尾
▼文化九年壬申▼孟春発兌
書肆
大坂心斎橋筋唐物町 | 河内屋太助 |
江戸十軒店 | 西村源六 |
同 大伝馬町二丁目 | 前川弥兵衛 |
同 小伝馬町三丁目 | 武蔵屋直助 |
同 所 | 丁子屋平兵衛 |