御飯の炊き方百種(ごはんのたきかたひゃくしゅ)

はしがき
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飯炊きの訓戒

  御飯を炊くのに昔から『始めちょろちょろ、中ぱっぱ、じわじわ時に火を引いて、赤児[あかご]が泣いても蓋取るな』と云ふことがある。夫[そ]れが何時[いつ]の世[よ]何時の時代も言ひ来たり、仕来たって御飯を炊く間はどんな事が起[おこ]っても決して蓋を取っては成らぬと、固い約束のやうに今も言ひ伝へられて居る。

▼始めちょろちょろ…弱火、強火、弱火、蒸らしの手順をたとえた言葉。

  此の一事から見ても流石[さすが]米で生活する国民だけあって、米の炊き方に先人も種々[いろいろ]苦心したものと思へる。恰[あたか]も外国人がパンの上手に焼ける女は、最も好[よ]い主婦の資格を有すると云ふに同じ事である。火の燃[も]し方、水加減、火加減、噴き加減、火の引き加減などに一々の加減に注意して、上手に炊き上げるまでは、細君[さいくん]なりお爨[さん]どんなりの心配は中々のものであって、釜底に黒焦[くろこげ]を拵[こしら]へないやうにと意を用ふるのだ。若い未婚の女などが飯炊きをしてお焦[こげ]を拵[ことら]へると、菊紋石[じゃんこ]の亭主を持[もつ]と昔の人は言って殊に注意をさせたもので、飯が巧く炊けない女は一人前の女でないとさへ言はれた位である。

▼細君…おくさん。おかみさん。かかぁ。
▼お爨どん…お手伝いさん。おなべどん。
▼菊紋石…あばたッつら。器量がよろしくない。

  何[ど]うして斯[か]ういふ誡[いまし]めが起ったかと云ふと、飯を炊くとき蓋をとって噴出すおネバを出して了[しま]ふと、炊き上がった御飯が不味[まづく]なると云ふにあるのだ。でおネバの出て了[しま]はない様[やう]に、其のおネバを煮込んで了ふのが好[よ]いと言はれて来たからである。おネバは米の有[も]ってゐる好[い]い滋養分である。それを御飯の中へ煮込むは味を好[よ]くするのだが、扨[さ]て茲[ここ]に赤児[あかご]が泣いても蓋をとるの誡めを守って、其の滋養分の多いおネバがジウジウブクブク大方釜と蓋との間から噴き出すを、チット見て居るのが好[よ]からうか、又悪からうかと云ふ疑問が起って来るのだ。

  斯[か]うなると蓋を取って噴き溢[こぼ]れるおネバを煮込だが好[いい]か、噴き溢[こぼ]れても蓋を取らないで炊いた御飯が、出来上[あが]ってから美味[おいし]いかと云ふ実際問題に接触されて来る。理窟[りくつ]から云へはおネバは蓋を取って煮込んだ方が、滋養の点に於ては好[い]いと言[いは]れやう。夫[そ]れなら味は何[ど]うであるか、之れは蓋を取って煮込んでも味には変[かは]りは無いと言ひ得られるが、此の蓋取るにも条件がある、無暗[むやみ]に取っては成らないのだ。そこで昔からの言伝[いひつた]へを繰返すと『ジワジワ時に火を引いて』までは、火を燃[も]す順序で御飯が盛んに煮えてゐる処[ところ]であるが、火を引いて了[しま]へば最[も]う煮るのではなく蒸す手続[てつづき]に入るのだ。此のグツグツと煮えてゐる最中には、煮え加減を見るのに幾度[いくたび]蓋をとっても、飯米[はんまい]には些[いさ]さか影響を及ぼすものでない。それは下に火が燃えて居る間は、外より入る冷たい空気も左程[さほど]感じないで済むからである。

  処[ところ]が蒸すといふ意味は外より冷たい空気の入らないやうに、中の温度で旨く塩梅[あんばい]されて煮物はふっくりと熟するのだから、此の蒸す時に確[しっか]り蓋をしておき、冷たい外気の入らないやうにする。夫[そ]れこそ蓋を取ったら蒸し損なひに成って美味[おいし]い味が無くなって了[しま]ふ。

  要するにおネバは注意して炊き込むべし、蒸す段になったら決して蓋を取るなと云ふ事に帰着するのだ。今一度昔の言葉を繰返すと『火を引いて』までは燃[も]す手続きで、引いたら蓋を取るなと別々に考へれば、キチンとロジックに箝[はま]って今の人の額[ひたひ]に筋立て議論することも、昔の人は一句に縮めて教へて居ることに成るのである。

▼おネバ…炊き上がったご飯から出て来るあぶく状のもの。
校註●莱莉垣桜文(2010) こっとんきゃんでい