御飯の炊き方百種(ごはんのたきかたひゃくしゅ)

はしがき
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釜の蓋に就て

  磨きあげてテラテラしかる釜に、片手では持上[もちあが]りさうも無い重い蓋を、木の目も洗ひ出されたやうに磨き、竈[かまど]に掛[かか]ってゐるを見ると其の家庭の裕[ゆた]からしく、清潔[きれい]好きさうで主婦の心懸けが行届いたやうに思はれ、台所第一の道具と目に注[つ]くものである。処[ところ]でこの釜の蓋は大抵重い大きい厚き板で造られ、如何[いか]にも立派に見えるもので、台所を粧飾[さうしょく]する具であって、釜の美しく光る綺麗さも、この蓋の厚い薄いで軽重[けいちょう]される傾向がある。

▼しかる…光る。
▼木の目…もくめ。

  然[さ]れば釜の蓋の厚い薄いも単に粧飾[さうしょく]に過ぎない、台所道具を立派に見せるだけのことで、他[た]に何の関係もないか、飯が美味[おいし]く炊けるとか不味[まづ]く炊けるとか、実用向きな触れて居ないだらうか、古くから釜の蓋と云へば厚くて重いものと極[き]められてゐるには、単に粧飾としての意味のみに止[とどま]って居ないのである。飯を炊くときフウフウ噴き出したら釜の蓋を取ると、其の炊き上がった飯が不味いとは誰[た]れも云ふ。飯炊きに熟練しない者でも此の定義は心得てゐる。二本の箸を持[もっ]て食物[しょくもつ]を喰ふのと殆ど同じことで、炊事者[すいじしゃ]の一般に古く古く実行されて来た、飯を美味[おいし]く炊く一方法とされて居る程である。薄い釜の蓋で炊く時は、釜中[ふちう]の湯が沸騰するに従って、猛烈な勢いで蓋を押し上げる、蓋を押し上げると蓋と釜の間に隙[すき]を生ずる、其の隙間より釜中[ふちう]に篭る滋養分即ち美味[おいし]い味が蒸発するので、吹きあげた御飯の味が失[うせ]ると云ふのだ。其処[そこ]で重い蓋をしてこの逃げ出す美味[おいし]い味を外部[そと]へ漏らさない為である。

▼吹きあげた御飯…「吹」は「炊」の誤字?

  此れが在来の説であるが、近時『釜の蓋は決して重くする必要がない、只[た]だ蓋の反らない程度にして置けば好[よ]い』と云ふ理論から割出[わりだ]された説が、新思想を抱[いだ]く家庭に行はれ出してゐる傾向がある。其の説は斯[か]うだ、古くより密閉すると著しく温度が上[あが]ると信ぜらる、結局圧力の作用といふ訳で、何でも余程温度が上るものの様に考へられて居るから、釜の蓋の重きを貴[たっと]ぶのであるが、実際に於て沸騰点にのぼる事はホンの僅[わづか]で、大概一度の十分の一近辺である。百度で水が沸騰するものならば、百一度の沸騰点に成る位であって、夫[そ]れが為に御飯が美味[おいし]く炊けるとは数字の上よりは考へ及ばない。又第二の反証[はんしょう]としては、釜の蓋の有る無しで、起るくらゐの変化は日々の気圧の変化で沢山見られて居る。蓋の軽重で御飯の出来不出来に対する問題が起るほどならば、日々の気圧の変化でも同じ問題が生じて来なければ成らぬ。夫[そ]れから二寸位の厚さの釜の蓋の及ぼす圧力の変化は、高さ廿五間の差のある所では何処[どこ]にでも起って居るのだ。釜の蓋の厚さで御飯の出来が違ふとならば、廿五間の上と下では御飯の味が違ふことに成る。斯[か]う推理的に進んで行って数字の上から考究して見ても、若[も]し同じ圧力で御飯を炊かなければ成らないとすると、一例を引けば信州松本と東京とを比べて、松本では二尺何寸と云ふ厚い木の蓋を戴せないと、東京と同じ圧力にならないが、信州松本の御飯が東京より不味[まづい]と云へやうか、故に釜の蓋は反らない物なら好[よ]い、釜と蓋との間に隙[すき]さへ出来なければ事足りる。要するに外界の空気の侵入を防げば好[よ]いのである。万一これを極端に何でも密閉すれば好[よ]いと考へて、釜と蓋との間に息の出ないやうな装置をして、蓋と釜とを封じて了[しま]ふやうな釜を発明した時は何[ど]うであらう。之れなら余程美味[おいし]い御飯が炊けると喜んで居るうちに、釜が破裂して中の御飯は四辺[あたり]に散乱し、四方[あたり]近所は飯だらけと云ふ騒ぎを仕出来[しでか]して、側に居た者が大火傷[おほやけど]を仕なければ成らぬ、危険な椿事[ちんじ]が起るものである。丁度無智の者に安全弁のない蒸気機械を預ける如き事になると云ふにある。

▼反証…反対意見の証拠。
▼椿事…一大変事、びっくらこん。

  理論の上からは至極の説で間然[かんぜん]する処[ところ]はない、畢竟[ひっきゃう]するに飯を炊くには釜中[ふちう]へ外の空気が入らないやうにするが、炊きあがった御飯をふっくりさせて、特有の味を放散しないにあるのだから、以上の説の如く質屋の利息と同じやうに理づめの仕様としても、取扱ふものが多く知識程度の低い、奉公人などの仕事に属してゐる。中流以下の家庭では細君[さいくん]自身でお焚[さん]どんを兼務する、相当な知識を有した人もある。学校でも飯の炊き方まで教へる向きもあって、兎[と]も角[かく]理論の方に傾き易いので、釜の蓋の厚いのは旧弊[きうへい]だなどとの御迷論も折々[をりをり]拝聴するが、何[ど]ういふものか其様[そんな]家庭で使はれる吹けば飛びさうな、薄ッぺらな蓋で炊きあげた御飯は美味[おいし]みが減殺[げんさつ]されて居るが論より証拠である。同一の釜に同一の質同一の量の米を入れ、蓋の厚い重いのと薄い軽いのとで炊いて見ると一番能[よ]く解る。或る家[うち]でお嫁さんの炊いた御飯と姑[しうと]さんの炊いた御飯と味が違ふ。火の燃[も]し方等の経験にもあらうが、姑[しうと]さんは釜の蓋が軽いと云[いっ]て常に大きな研石[といし]を載せてゐた。お前の御飯の炊き方は何[ど]うも不味[まづい]と云[いは]れる苦し粉[まぎ]れ、或朝[あるあさ]は研石[といし]を載せて炊くと、好[よ]く出来たと云ふ実談もあるから、素人向[しろうとむき]には旧来の重い蓋の方が過誤[あやまり]が少いと云って好[よ]いやうである。

▼間然する処…指摘するような欠点。
▼畢竟…結論づけるに。
▼細君…おくさん。おかみさん。かかぁ。
▼お焚どん…食事の仕度をすること。
▼旧弊…ふるくさい。
▼減殺…そこなわれる。
▼研石…庖丁などをとぐための四角い石。
校註●莱莉垣桜文(2010) こっとんきゃんでい