実業の栞(じつぎょうのしおり)茶商

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茶商

茶は吾人[ごじん]が日用品中一日[じつ]も欠[かく]べからざるものにて、兼[かね]て我国[わがくに]貿易品として其[その]首位を占め、欧米諸国に向[むけ]て年々輸出せらるる額も少なからず、その大略は別項貿易商の記事に譲りてここには述[のべ]ず。今は市中到る所にありふれたる茶商所謂[いはゆる]葉茶屋なるものに就[つい]て、その大概[おほよそ]を略述すべし。先[まづ]此業者の旧家にして其名[そのな]四方に轟きたるは、日本橋通[とほり]二丁目の山本屋に上越[うへこ]すものなく、同家の銘茶山本山[やまもとやま]は遠く江戸時代より広く世人に愛用せられ、以て現時に至りぬ。天保七年の秋刊行せられし江戸名物狂詩選と云へる書物にも『買者立并家如市。番頭手代少無間。一時売出三千斤。多是自園山本山』と著者は咏吟[えいぎん]せしが、今も昔も変[かは]らぬ繁昌は真[まこと]に此詩[このし]の如し。

▼吾人…われわれ。
▼貿易品…アメリカやヨーロッパと通商条約が結ばれて以後、日本からは多くのお茶が輸出されていました。
▼葉茶屋…お茶っ葉屋さん。
▼現時…現在。
▼天保七年…1836。
▼江戸名物狂詩選…木下梅庵による『江戸名物詩』のこと。江戸の各地にある名所や名店を狂詩に記したもの。
▲資本と利益

元より日用品の事なれば、此業はさのみ資本を投ぜずとも、一寸[ちょっと]したる店は開き得るれど、[かま]もどうやら店らしく、上等の銘茶をも仕入れ、店の装飾品たる茶会道具の二三十通りも取揃ふるには、少くも六七百円の資金は入用[にふよう]なり。これに準じて市中到る所の小路[こうぢ]に散在する小店[こみせ]は、元より番茶を主[しゅ]として上等の茶はほんの云訳[いひわけ]だけの仕込[しこみ]ゆゑ、通常百四五十円より二百円位にて出来得るものにて、利益は番茶上茶平均して一割五分乃至[ないし]二割程と見れば大差なかるべしとぞ。

▼構へ…店がまえ。内装外装。
▼茶会道具…お茶の道具。茶碗や茶筅、茶杓など。
▲繁忙なる時期

は春季新茶の出[いづ]る頃を第一とし。次[つい]では秋風やうやう立[たち]そむる頃より翌年の春季二三月の候に及び、之[これ]に反して閑散を極むるは夏季三四箇月の間にして、此時は世人の大方[おほかた]番茶に代るに麦湯[むぎゆ]を以てするより、自[おのづ]と売行[うれゆき][まれ]になるものなり。

▲麦湯…煎った大麦を淹れたもの。麦茶。夏の飲み物として江戸時代から広く飲まれていました。
▲茶の種類と産地

茶の種類を大別すれば、緑茶紅茶の二とし、別に猶[なほ]磚茶[ばんちゃ]と称するものあり。これと紅茶とは重[おも]清国[しんこく]にて製せられ、緑茶は日常吾人が飲用するもの之[これ]なり。その下等なるも番茶とし、良葉[りゃうえう]を用ひて精製したるものを玉露[ぎょくろ]と名[なづ]く。茶商の店頭に種々優美なる銘の付られたるものあるは何[いづ]れも玉露の階級を別[わか]てるに過[すぎ]ず。さて其[その]産地は静岡を第一とし、京都徳島三重地方之[これ]に次ぐ。何[いづ]れも年四十万貫以上の産地とす。

茶にくらせ春も雪降[ゆきふる]雨が降[ふる] 小圃

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▼磚茶…正しくは「たんちゃ」。お茶を粉にひいて、練り固めて醗酵させたもの。
▼清国…清の国。中国。
▼良葉…えりすぐりの茶葉。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい