実業の栞(じつぎょうのしおり)酒商

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酒商

[この]問屋の巣窟は云ふまでもなく新川[しんかは]新堀[しんぼり]にて、最も旧家と称するは鹿島本店[かじまほんてん]富士本店[ふじほんてん]等にして其数 三十戸、又問屋の内には仲買問屋と云ふありて其数三四戸あり。卸小売の旧家は四方真顔[よものまがほ]の血統なる両国広小路の四方伝兵衛[よもでんべゑ]になりとす。

▼四方真顔…(1753-1829)鹿都部真顔。狂歌師。戯作では恋川春町の門人でそちらでの名は恋川好町。
▲問屋

の資本は今更ここに述ぶるも[くだ]なるべく、少なくも十万円以上を投ぜざれば営業は成難し、其取引も二駄片馬[にだかたうま](酒樽五本)より以下は販売せず、、凡[すべ]て表面上の規定は現金取引なれど、多くは四十日明日[みょうにち]と云ひ延取引[のべとりひき]なり。利益は約五分位なれど、上等の精酒となれば十駄(樽数二十本)四百円余なれば、其[その]利も従って多きものなり。尚[なほ]新川新堀の問屋は、大抵池田[いけだ]伊丹[いたみ]に本店を有し、当市は支店出張店とも云ふべきものにて、又桜正宗[さくらまさむね]は何本店が荷受[にうけ]すと云ふ規定ありて、他[た]の店にては其[その]銘ある酒は直接取引は出来ざるなり。

▼管なるべく…くだをまく。
▼二駄片馬…一頭の荷駄馬には二本の酒樽をゆわいつけるので、二頭でまずは四本、それに足すことのその片っぽう一本で合計酒樽は五本なりという計算。はい、ご明算。
▲仲買問屋

と云ふは小売へ二駄以下の樽売をすれど、片馬(一本)以下を売らざるは勿論にて、其[その]利益は五六分位あり。資本は少なくも数万円を要す可[べ]し。


▲小売商

の資本は限[かぎり]あらず、一万円にても出来れば四五百円でも出来るやうな訳にて、此[この]商売は精酒のみならず、ビール、味淋[みりん]、味噌、塩、醤油等を合[あは]せ売るものなり。又小売商と仲買とを兼[かね]ぬるありて、樽売もすれば量売[はかりうり]もなし、又料理店飲食店等を得意として、一駄なり片馬なりを売るあり、如何[いか]なる小売にても樽売せざる処なけれど、樽売するは小売仲買兼業者が多き者なり。

▼量売…樽からお客の欲しい量だけを販売する売り方。
▲仕入と利益

[ま]づ精酒は仲買問屋若[も]しくは以前自己が雇[やとは]れし問屋より仕入れ、醤油は荷受問屋より、ビールは大取次より仕入れるものなり。品物によりて利益一定せざれど、酒は約一割余、ビールは打売[だーすうり]にて廿銭見当、味噌は二割余あり。安酒を売る者はアルコールが安値なりし頃は、之[これ]を混和して非常の利益を占めしが、目下は一磅[ぽんど]三十銭もなすより、混和してもさしたる利益なく、依[よっ]て混和するは稀[まれ]なりと。尚[なほ]精酒は計量[はかり]巧不巧[かうふかう]によりて利益に相違あり、一樽を三斗五升と見て、極[ご]く安く売る店は、二斗八九升に量るが普通なりとぞ。惣じて安酒には変味せし酒を入れ、唯[ただ]呑口[のみくち]の善悪に拘[かか]はらず、升目を安く売るが策にて、此酒を売る者は利益多し。

▼打売…1ダース単位で販売をする売り方。
▼アルコール…アルコールをお酒にまぜて量を増やして売ってた店もありました、という報告。
▼巧不巧…じょうずへた。
▼変味せし酒…気が抜けたりして風味が落ちたお酒。
▲小売の秘訣

は酒の調合に手練を要し、安酒も調合次第にて売値に甲乙を生ず。又新酒の出初[ではじ]むる期節[きせつ]、則[すなは]ち六月以降となれば、古酒は払底となるより、直段[ねだん]昂騰[こうとう]するのみならず、重苦[おもくるし]くなりて売口[うれくち]悪しく、さりとて新酒許[ばかり]にては呑口[のみくち]面白からず、僅[わづか]一ヶ月間許[ばかり]にて本火入[ほんびいり]の新酒出る迄は、調合非常に面倒なり。又気候の暑寒[しょかん]によりて、新酒を多分になすと古酒を多くするとの加減あり。醤油も上等品は黴[かび]が生ぜずと云へど、そは素人考[しろうとかんがへ]にて置場所に注意を要するものなり。

▼古酒…今年の新酒に対して去年のお酒。
▼昂騰…急激な値上がり。
▼本火入の新酒…火入れをして醗酵を止めたお酒。これをしていないものは火不入(ひいれず)と呼ばれていて、時間がたつと醗酵が進みすぎて悪くなったりしてしまいます。
▼気候の暑寒…あついさむい。
▲得意廻り

は雇人[やとひにん]の善悪によりて増減を生ずれば、此[この]撰択最も肝要なり。惣じて一合なり二合なり買ふ得意が、少なくも百軒余なければ営業にならぬものと知るべく、一ヶ年平均して盛衰少なき商業なれど、最も繁忙なるは暮[くれ]より一月に掛けてと、三四月頃の花見時にて、夏季は幾分かビールに押される傾[かたむき]あれど、之[これ]は中[ちう]以上の顧客のみなり。

花売[はなうり]のかへゆく親の寝酒かな 保吉

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校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい