此[この]問屋の巣窟は云ふまでもなく新川[しんかは]新堀[しんぼり]にて、最も旧家と称するは鹿島本店[かじまほんてん]富士本店[ふじほんてん]等にして其数 三十戸、又問屋の内には仲買問屋と云ふありて其数三四戸あり。卸小売の旧家は▼四方真顔[よものまがほ]の血統なる両国広小路の四方伝兵衛[よもでんべゑ]になりとす。
の資本は今更ここに述ぶるも▼管[くだ]なるべく、少なくも十万円以上を投ぜざれば営業は成難し、其取引も▼二駄片馬[にだかたうま](酒樽五本)より以下は販売せず、、凡[すべ]て表面上の規定は現金取引なれど、多くは四十日明日[みょうにち]と云ひ延取引[のべとりひき]なり。利益は約五分位なれど、上等の精酒となれば十駄(樽数二十本)四百円余なれば、其[その]利も従って多きものなり。尚[なほ]新川新堀の問屋は、大抵池田[いけだ]伊丹[いたみ]に本店を有し、当市は支店出張店とも云ふべきものにて、又桜正宗[さくらまさむね]は何本店が荷受[にうけ]すと云ふ規定ありて、他[た]の店にては其[その]銘ある酒は直接取引は出来ざるなり。
と云ふは小売へ二駄以下の樽売をすれど、片馬(一本)以下を売らざるは勿論にて、其[その]利益は五六分位あり。資本は少なくも数万円を要す可[べ]し。
の資本は限[かぎり]あらず、一万円にても出来れば四五百円でも出来るやうな訳にて、此[この]商売は精酒のみならず、ビール、味淋[みりん]、味噌、塩、醤油等を合[あは]せ売るものなり。又小売商と仲買とを兼[かね]ぬるありて、樽売もすれば▼量売[はかりうり]もなし、又料理店飲食店等を得意として、一駄なり片馬なりを売るあり、如何[いか]なる小売にても樽売せざる処なけれど、樽売するは小売仲買兼業者が多き者なり。
先[ま]づ精酒は仲買問屋若[も]しくは以前自己が雇[やとは]れし問屋より仕入れ、醤油は荷受問屋より、ビールは大取次より仕入れるものなり。品物によりて利益一定せざれど、酒は約一割余、ビールは▼打売[だーすうり]にて廿銭見当、味噌は二割余あり。安酒を売る者は▼アルコールが安値なりし頃は、之[これ]を混和して非常の利益を占めしが、目下は一磅[ぽんど]三十銭もなすより、混和してもさしたる利益なく、依[よっ]て混和するは稀[まれ]なりと。尚[なほ]精酒は計量[はかり]の▼巧不巧[かうふかう]によりて利益に相違あり、一樽を三斗五升と見て、極[ご]く安く売る店は、二斗八九升に量るが普通なりとぞ。惣じて安酒には▼変味せし酒を入れ、唯[ただ]呑口[のみくち]の善悪に拘[かか]はらず、升目を安く売るが策にて、此酒を売る者は利益多し。
は酒の調合に手練を要し、安酒も調合次第にて売値に甲乙を生ず。又新酒の出初[ではじ]むる期節[きせつ]、則[すなは]ち六月以降となれば、▼古酒は払底となるより、直段[ねだん]▼昂騰[こうとう]するのみならず、重苦[おもくるし]くなりて売口[うれくち]悪しく、さりとて新酒許[ばかり]にては呑口[のみくち]面白からず、僅[わづか]一ヶ月間許[ばかり]にて▼本火入[ほんびいり]の新酒出る迄は、調合非常に面倒なり。又▼気候の暑寒[しょかん]によりて、新酒を多分になすと古酒を多くするとの加減あり。醤油も上等品は黴[かび]が生ぜずと云へど、そは素人考[しろうとかんがへ]にて置場所に注意を要するものなり。
は雇人[やとひにん]の善悪によりて増減を生ずれば、此[この]撰択最も肝要なり。惣じて一合なり二合なり買ふ得意が、少なくも百軒余なければ営業にならぬものと知るべく、一ヶ年平均して盛衰少なき商業なれど、最も繁忙なるは暮[くれ]より一月に掛けてと、三四月頃の花見時にて、夏季は幾分かビールに押される傾[かたむき]あれど、之[これ]は中[ちう]以上の顧客のみなり。
花売[はなうり]のかへゆく親の寝酒かな 保吉