実業の栞(じつぎょうのしおり)鰹節商

凡例
目次

もどる

鰹節商

鰹節[かつぶし]問屋の巣窟[さうくつ]とも云ふべきは、日本橋区小舟町[こぶねちゃう]本船町[ほんふなちゃう]四日市[よっかいち]等にして、同じ問屋の中[うち]にも荷受[にうけ]を扱う純然たるものと、小売への卸と仲買とを兼ねたるものとあり。前者の資本は少なくも五六万なくては思ふ侭[まま]に行かざれど、其の遣[や]りやうに依[より]ては僅か一万内外の資本にても、どうやら繰廻[くりまは]し行かれざるにあらず、されど手広き倉庫などの必要もあれば、到底小資本にて叶ひがたし。

▼鰹節…この本では「かつおぶし」は「かつぶし」の表記に統一されています。
▲取引と利益

取引は殆[ほと]んど現金同様にして、為換[かはせ]を以て荷主へ振込むか、荷着払[にちゃくばらひ]かの二様なり。他[た]の荷主と異[ことな]りて荷主の出京するは、以前は半ヶ年位なりしも現今は二三ヶ月位に一度来る事にて、最も取引の頻繁なるは土州、薩摩、伊豆、東廻りと称する水戸、銚子、磐城、仙台等にして、大阪とは最も取引盛[さかん]なれども、産地に近きより概して東京[とうけい]方は買手なり。さて問屋の口銭[こうせん]は五分にして、十貫目一樽に付[つき]二分の目切れを公然差引[さしひき]て仕切[しきり]をするものながら、相場の高低により損益あるは云ふまでもなかるべし。荷主の中[うち]にて例の狡智[かうち]に長[たけ]たるは、静岡遠州等の者にて、是等[これら]の連中は銚子水戸等にて、充分乾燥せざる生節[なまぶし]を購入して自国に送り、之[これ]を乾燥して伊豆物[いづもの]等に混入し、問屋へ荷積する事往々あれば、其[その]荷を能[よ]く撰択せざれば意外の損失を招くなり。猶[なほ]卸問屋仲買兼業の中には、平素小売相場の立ち居りて、取引高は決して純粋の問屋に譲らず、一ヶ年何十万円の巨額に及び、利益は概して一割内外なりとか。

▼土州…土佐の国。かつおの産地で名高い高知の地。
▼東京…「とうけい」の読みに注意。
▼狡智…狡知。ずるがしこさ。
▼遠州…遠江の国。
▼伊豆物…伊豆で生産されていたかつぶし。
▲卸問屋の小別

卸問屋の中にも、料理店へ売込むものと、蕎麦屋へ販売するものとありて、傍[かたは]ら店にて一本売[いっぽんうり]をなす商店あり。料理店向[むき]には浅草並木の大黒屋下谷の加島屋京橋の板倉屋等あり。蕎麦屋向は芝の井口等有名なる店なり。此[この]問屋は玉子海苔は更[さら]なり婚礼[こんれい]結納[ゆゐなふ]等の儀式物も販売す。

▼儀式物…結納のときに相手の家への進物として使うかつおぶしのこと。
▲鰹節の種類

も幾十種とありて、上等はいふまでもなく土州なり。次は薩摩伊豆駿遠[すんゑん]等にして、東廻りと称する水戸銚子仙台等は下等品なりと。

▼薩摩…枕崎などが有名です。
▼駿遠…駿河の国と遠江の国。
▲小売商

の多くは、鰹節のみ売れるはなく、乾物店にても之[これ]を販売し、玉子屋にても付属品同様なれば之[これ]に兼[かね]ざるはなし。小売商の中[うち]にて最も有名なるは日本橋区瀬戸物町の[にんべん]なりとす。


▲資本

家屋は別とし小店[こみせ]にても、普通品を大凡[おほよそ]取揃ふれば是非とも五百円位の資本は要す。土佐節の如きは一樽(十貫目)五十円もするより、百円にて僅か二樽よりの仕入[しいれ]叶はず、斯[かか]る品を置くには資本も右以上ならでは開業しがたく、又素人[しろうと]が突然此[この]業を始むる時は、品質の善悪を識別する眼[まなこ]なきより、下等品を上等品中に混入して、問屋より卸されても之[これ]を撰択する事出来ず、随分此[この]商人は人の悪き者なれば、買手[かひて]盲目[めくら]と見れば、偽者[ぎぶつ] を売付[うりつ]くる事常に絶えず、数年[すねん][この]商売に従事する者も、少しく注意を欠く時は其[その]術中に陥[おちい]り失敗を招く事屡々[しばしば]なり。産地を証する為のペーパーが貼付[てうふ]しありても決して油断は成難[なりがた]し。

▼土佐節…土佐産のかつぶし。
▼盲目と見れば…品物に対する鑑識眼がないお客だな、と感知すれば。
▲利益

一本売[いっぽんうり]なれば其[その]品質の上下により一定せざれど、大凡[おほよそ]二割の利益は確[たしか]なり。概して此[この]品は普通一日に遣[つか]ひ切るものならねば、他[た]の日用品に比[くら]ぶれば売口[うれくち]少なしと知るべし。


▲書入の時期

は十月より暮[くれ]に至る三ヶ月間にして、最も閑散を極むるは三月と九月なり。儀式用の島台[しまだい]は十一月が最も盛況にて、此[この]利益は手間を加へて二割以上は確[たしか]なり。客の好[このみ]によりては是[これ]以上の利益ありて。小売商に取りては割合のよき品なり。之[これ]に反して困難なるは入梅頃なり。新節[しんぶし]は黴[かび]を生じ古節[こぶし]にても手置き悪しくば同様故[ゆゑ]、雨降らざる日は必らず日光に曝[さら]ウズクリにて黴を取る手数夥[おびただ]しく、又虫の付く恐れもあり、猶[なほ]料理店飲食店には、一貫何程[なにほど]とて通帳[かよひちゃう]を以て販売するが例にて、云ふまでもなく仕払[しはらひ]は月末なれど、内金払[うちきんばらひ]多く皆済[かいさい]となるは二ヶ月間位掛[かか]るが普通なり。又素人に売ると異なりて、客用になす物なれば、少しく鰹節に癖[くせ]等あれば差換[さしかへ]を要し、品質の選び方には中々[なかなか]苦心をなすといふ。

鰹節かけども見えず春の猫 小桃

つぎへ

▼島台…婚礼のときなどに飾る松の木や鶴や亀などがあしらわれた台。
▼入梅頃…梅雨入りのころ。
▼新節…そのとし出来たてのかつぶし。
▼古節…一年以上たってるかつぶし。
▼ウズクリ…浮造。かるかやの根をたばねたもの。普通は木のもくめをみがく時に使われています。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい