実業の栞(じつぎょうのしおり)呉服商

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呉服商

[この]商業には生木綿[きもめん]、金巾[めりんす]、絹布[けんぷ]、帯地[おびぢ]、双子[ふたこ]等数種の問屋ありて、其[その]巣窟[さうくつ]として有名なるは、日本橋区富澤町[とみざはちゃう]田所町[たどころちゃう]大伝馬町[おほでんまちゃう]元浜町[もとはまちゃう]橘町[たちばなちゃう]等なり。資本金は少なくとも五万円、多きは二三十万円なくても問屋とは云ひがたく、普通十万円位の資本を有せざれば、客の信用も至って薄しといふ。

▲問屋の遣繰

可成[かなり]の問屋にても、実際に調査すれば、時分所有の品物よりも元方[もとかた]より融通せるが多く、三百五十余名の分[うち]にて資本の豊かなるは幾何[いくら]もあらざるべく、表こそ土蔵造[どざうづくり]の大家屋に、雇人[やとひにん]の二三十人も使用し、品物も店頭より土蔵内まで山の如く積み、一見[いっけん]大商店とは見ゆれど、内幕は火の車の苦境にて、絹糸渡[きぬいとわたり]の危険をなすが多し。

▼火の車…赤字たくさん。「火が降る」、「火の車が舞う」とも。
▼絹糸渡り…絹の糸の上を渡る芸。綱渡りよりけんのんけんのん。
▲仕入先

は何[いづ]れも産地の織元[おりもと]へ向けて取引す。関西仕入係は其地[そのち]の物だけを取扱ひ、関東仕入係も矢張[やはり]他には手を出さず、メリンスは横浜の商館にて取引するは云[いふ]までもなく、仕払[しはらひ]は凡[すべ]て現金払か、荷着の上[うへ]即時仕払かの二途[にと]にて、多くは荷着の上[うへ]仕払ふが例なり。

▼二途…ふた通り。
▲利益

生木綿[きもめん]等は僅[わづか]に二分か三分位の薄利なれど、其[その]数の捌[さば]けるより計算すれば中々[なかなか]の高となり絹物は惣[そう]じて一割乃至[ないし]一割五分の利益あれど、反数[たんかず]多く出[い]でざれば、利益は遠く木綿に及ばず。併[しか]し婦人用の繻珍[しゅちん]丸帯[まるおび]等の帯地は普通の絹布より割合よろしく、次に双子[ふたこ]の縞物[しまもの]は薄利なれど、矢張[やはり]数にて利益を見らる。凡[すべ]て金高[きんだか]の昇る品は一反に就[つき]ては割よけれど、計算すれば其[その]割にならず。木綿は一反にては僅[わづか]一円に対して二三分なれど、取引多きより積[つも]れば利益多く、結局金高の多き物は数が出ず、安物が勝[かち]を占むるなり。さて無地のメリンス等も矢張[やはり]二三分見当なりとぞ。


▲取引高

は一ヶ月木綿物にて二百円も商売する大店にても、絹物は百万円位に止[とどま]り。以下小店にても皆其割合なり。さて問屋同士の取引は、僅[わづか]に品切物か生木綿等を取引するに止まるより、取引皆無と云っても大差なからん。


▲小売店への卸

は鞘取[さやどり]と云ひ、問屋の品物を借り、小車に葛籠[つづら]を二三個も積みて挽行き、小売店へ貸売と云はんより寧[むし]ろ押付売[おしつけうり]をする也。元来品物は問屋より借りて商[あきなひ]に行くより、貸しても勘定さへ甘[うま]く取[とれ]れば損はなし。併[しか]し之[これ]をなすには、問屋へ信用ある者ならでは迚[とて]も行はれず。猶[なほ]大問屋にては外廻り則ち小売へ卸し歩くは稀なり。


▲客の仕払振

は貸売が十中八九を占め、置買等は仕払ひの手堅き客にて上等の部なり。されば十万円の資本ある問屋にても半額位は貸[かし]となり、火の車の問屋は常に荷主に尠なからざる負債を有す。

▼仕払ひの手堅き客…きちんと入金をしてくれるお客さま。
▲取引の繁忙

なるは春季は四月より八月中旬頃までにて所謂[いはゆる]夏物の取引、秋季は九月中旬より翌年一月下旬に至るまでにて、これは冬物の取引なりとす。


▲メリンス友禅及中形

は染上りの出来不出来、或[あるひ]は色の配合形の意匠等に非常の辛苦を要し、宜敷[よろしき]を得[う]れば中々[なかなか]の利益を収め得れど、若[も]し何[いづ]れにか欠点生ぜし時は、他の物に比べて損失甚だ多しとなり。

▼形の意匠…模様のかたち。
▲小売店

一概に小売店と称しても、中には三井[みつい]大丸[だいまる]白木屋[しろきや]等卸問屋より[はるか]に優れし大店ありて、何[いづ]れも自家特約の職場[しょくぢゃう]乃至[ないし]染職場[せんしょくぢゃう]を有し、各産地にもそれぞれ特別の約定[やくぢゃう]ありて、商売至って手弘し。店売は凡[すべ]て現金売なれど、小車に反物を積み各得意先を順廻し商ひするは、自然[しぜん]通帳[かよひちゃう]にての貸売なりと知るべし。

▼遥に優れし大店…三井、大丸、白木屋は江戸の頃からつづいて営業していた大きな呉服屋で、のちには百貨店へと成長して更なる大店になっています。
▼職場乃至染職場…店と契約をして作業をしている作業場で、職場は仕立てや直し、染職場は色の染めを担当していました。
▼通帳…その場では現金決済をしないで通帳に金額の記入だけをしておいて、決められた期日(お盆や大晦日)に支払をするという昔ながらの商法。
▲資本

[かか]る大店向[むき]は別としても、店に綿布[めんぷ]絹布[けんぷ]帯地[おびぢ]等を体裁よく略[ほぼ]陳列せんには、少なくとも四五千円の資本は入用なり。されど一間[けん]間口の小店に至っては、品物も一通り取揃へあるは稀なれば、資本も四五百円あれば何[ど]うか店になる也。


▲利益

木綿物にて五分以上一割位、絹布類にて一割五分以上二割位、繻珍[しゅちん]の女帯等は最も利益ありてこれは約三割内外なり。されど是等[これら]の品は、毎日売れる物ならねば、木綿物の薄利と対照すれば、木綿物が数の売れるだけ清算上利益なる訳なり。さて利益の最も少[すくな]きはメリンスの無地物にて、多くは一尺或[あるひ]は二三尺と切売し、それに尺のお負[まけ]もあり、何[いづ]れの小売へ行きても直段[ねだん]に相違なく、尺切れ等を見込みて原価だけに売揚[うりあ]ぐれば、上等の部にても大抵幾分かの損となるなり問屋は此品[このしな]にても一円に対して二三銭の口銭あるは明[あきら]かなり。


▲小売店の区別

一は木綿絹布何品[なにしな]なりとも商ふもの、二は双子屋とて人形町通り等にある珍柄[ちんがら]古渡写[こわたりうつし]の双子唐桟[ふたこたうざん]のみを販売するもの、三は夏季中形浴衣[ゆかた]のみ売るものにて是等[これら]は米商株式仲買等の投機商人、或[あるひ]勇み肌の兄手合[であひ]が相手なり。浴衣は芸妓[げいぎ]さては料理店の女中等、代価に糸目を付ず、染上りより柄行[がらゆき]の珍奇を好み贅[ぜい]を尽せば、木綿縮[もめんちぢみ]と真岡木綿[まをかもめん]との区別はあれど、一反三円以上の価[あたへ]するあり、双子に至りても一反五円以上のものありて、贅沢品なれば品物も鬱金木綿[うこんもめん]にて上包[うはづつみ]し、桐箱に納め体裁を作れり、従って利益も約三割は確かなりとす。

▼何品なりとも…どんな品物でも。
▼古渡…桃山時代などに渡来してきた唐桟や更紗など輸入品の模様をとったもの。
▼勇み肌の兄…火消、職人、河岸で働くお兄さん達。
▼芸妓…芸者さん。
▼柄行…浴衣地の模様。
▲小売商の仕入

金の廻る商人は、田所町なり富澤町なりの問屋へ直接に仕入に行けど、金の廻らぬ者は、問屋の部に記せし鞘取[さやとり]俗に才取[さいとり]と云ふ外廻[そとまはり]の売手より借売[しゃくばい]して品物を仕入れるが常にい、非常に苦しき商人の中[うち]には、往々之[これ]を借りて質屋に持行[もちゆ]き一時の融通を為[な]す者もあり、所謂[いはゆる]借金[しゃくきん]を質に置[おく]とは是等[これら]を指して云ふ言葉ならん。故[ゆゑ]に期日に至[いたっ]ても才取に仕払なりがたく、遂には突然閉店する場合となり、中なる才取の困難非常にて、已[やむ]なく時に其[その]着衣迄も脱ぎて仕払を付[つけ]る事さへありとか。

▼中なる…取引の間に立ってる。
▲芸人への商売

花柳界は多く通帳[からひちゃう]にて置買[おきがひ]なり、品物に相当の割増しあるは、元より買手も承知にて求め、一品[ひとしな]の仕払済[しはらひずみ]となるは早くも三ヶ月位なり。根が商売上の着衣なれば、素人[しろと]の服装と異なり、一重[ひとかさね]にて百金二百金も出[い]で、春の出の着物等は最も高価を極[きは]む。さて浴衣[ゆかた]なれば浅草新福富町の竺仙[ちくせん]、呉服は東仲町の古着商兼呉服商大丸屋[だいまるや]友染物[いうぜんもの]は本町の岩田[いはた]等、新柳二橋[しんりうにけう]を始め各花柳界へ多く商法する者なり。

夜の更けて星とぶ呉服祭かな 優々
何と羽織縮緬は重し紗は軽し 其角
羅や風にたへざる三挺立 紅葉

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▼友染物…友禅。
▼新柳二橋…新橋と柳橋の芸者たち。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい