実業の栞(じつぎょうのしおり)筆墨商

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筆墨商

此業[このけげふ]旧家の問屋と聞えたるは、日本橋本石町[ほんこくちゃう]の高島青林堂[たかしませいりんだう]、これはヤマ二といふ墨の製造元にして名あり、次[つい]で同区大伝馬町の萬八[まんはち]など老舗[らうほ]として知らざるものなし。又小売商としては同区通一丁目の古梅園[こばいゑん]、同区通旅籠町の高木[たかぎ]、いづれも古くより知られたる店とす。

▲資本金

前記の如き問屋小売商となりては、元より旧家の事とて其[その]資本も多額なるべきが、普通の仕入商[しいれあきなひ]なる学校用品向の処にては、百円の資本もあらば何[ど]うやら店と成行[なりゆ]くものなり。されど所謂[いはゆる]筆墨商といふ名を付[つく]るに足るべきは千円以上ならでは六箇敷[むつかし]きものにて、此場合[このばあひ]勿論[もちろん]自店に職人の二三人は使ひ、独特の筆幾種かを製造販売し行く事なり。因[ちなみ]に記[しる]す、斯[かか]る職商[しょくあきなひ]にて職人を使ふ場合其[その]給料は如何[いか]なる支払を為[な]すやといふにこれは製造高[せいざうだか]によりて給する規定なりと。


▲利益

は平均二割五分より三割の処ながら、問屋となれば四割五割の見当となる由[よし]、これは一体に職人の直段[ねだん]を減じてかかるより、斯[か]く割よき結果を見らるる也。


▲繁忙なる時期

は毎年十月頃より翌年五月一杯とし、学校用品店は特に十二月前より二三月の頃忙しく、夏季に入[い]りては学校諸官省とも休暇となるより、自然不況を来[きた]すものなり。

▼学校諸官省…どちらも学習用品、事務用品として筆と墨が基本の消耗品でした。
▲墨の産地

筆墨商といへども、東京にては先[ま]づ筆の製造のみ限り、墨は何[いづ]れも地方出来[でき]のものなり。上等品は奈良にて造られ、安物は大阪にて製造せらる。


▲人知れぬ困難

は筆の軸に虫のつく事にて、まず軸から入[い]り遂には毛の中にまで食ひ込むより、余り売行なき上等品の保存には中々[なかなか]苦心するものなり、而[しか]して其[その]時期は毎年夏の初旬なれば、其頃は手入[ていれ]に随分忙しきものなりと。

大判の墨干す冬の日南かな 百池

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校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい