実業の栞(じつぎょうのしおり)時計商

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時計商

[この]問屋の資本も酒商と同じく、少なくとも十万円以上なくば迚[とて]も問屋といふ訳には行かず。外国商館との取引は荷為換[にかはせ]にて、表面現金取引となり居れど、大抵一ヶ月間位の延取引[のべとりひき]なりと知るべく、機械側の品質及び置[おき][かけ]時計等の種別により差異あれど、平均一割以上の利は確かなり。問屋となれば雇人[やとひにん]も人数[にんず]を要し、現金の寝る事多く、常に欧米各国の流行に注意し、又和製の置時計ボンボン銀時計等を、印度、朝鮮、清国等へ輸出する時の事ありて、中々[なかなか]に注意を要す。又仲買[なかがひ]と云へるは表向なけれど、地方行の品を問屋より仕入て販売するは、小売店の業にて、即ち仲買兼業の状態なり。尚[なほ]時計商と一概に云へど、目下は美術装飾品より眼鏡、測量器、金銀盃[きんぎんはい]迄も置く必要ありて是等[これら]の利益も平均一割以上二割はありとぞ

▼酒商…「酒商」参照。
▲小売商

は一通り懐中時計よりボンボン置時計さては付属の鎖、磁器等を揃ふるには、少なくも五百円以上の資金を要す。利益は平均三割位は確[たしか]なり。修繕物[しゅぜんぶつ][すなは][みが]ゼンマイ直し等は小売店の身上とも云ふべく、廿五銭の磨代[みがきだい]を受くれば半分余は利となるものにて、小売は直し物を集むる事を怠らず。併[しか]し自分が直し方を知らず、職人を使役するとなれば、手間に一日八十銭も取られるより、余程数多く直し物を引受ざれば立行きがたし。さて自店にて売りたる時計にても、一度直しせし時は必らず裏側へ一の切り目を付し、二度なれば二つ切り目を付け置き、引取の時に直[ただち]に修繕[しゅぜん]の度数を知る便に供す。

▼修繕物…読みが「しゅうぜん」でないところに注意。
▼磨き…時計の表面や部品をみがき直すこと。
▼ゼンマイ直し…ゆるんだゼンマイをつけ換えたりすること。
▼直し物…修理のご依頼。
▼切り目…切り込み。
▲奸商のかずかず

奸商[かんしょう][たくみ]金性[きんしゃう]の刻印等を改刻して商人を瞞着[まんちゃく]するものあれば、商人も中々[なかなか]油断は出来ず。質流[しちながれ]等を専門となす商人ありて、此等[これら]の中[うち]には素人[しろうと]を瞞着する手段を取り、銀側[ぎんがは]なれば性[しゃう]の悪きも磨き立て上性[じゃうしゃう]と見せ、又はニッケル側[がは]に銀鍍金[ぎんめっき]を施して銀側と見するもあれば、素人も油断すべからず、是等[これら]の利益は決して僅少ならず、常に倍額は確かなりとぞ。尚[なほ]現今最も売口[うれぐち][よ]き形は、十六形より十九形迄にて、以前の如き大形は流行せず、総別薄手[うすで]を好めど、地方には厚手大形が立派にて売行ありと。

いさぎよく今年の一時鳴りにけり 文六

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▼奸商中…悪徳商人たち。
▼金性の刻印…純金の配合率などを示した表示の刻印。
▼瞞着…だます、ひっかける。
▼質流…質屋に入れられたまま受け出されなかった品物。
▼銀側…まわりを銀でつくってある時計。
▼ニッケル側…まわりをニッケルでつくってある時計。
▼総別…だいたいのひとは。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい