実業の栞(じつぎょうのしおり)材木商

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材木商

都下材木屋の巣窟は誰しも知るが如く木場本所の二箇所なり、此辺[このへん]に店を有する者は何[いづ]れも問屋のそれにして、木場町の如きは随分大身代[おほしんだい]の者もなきにあらねど、表面と裏面[りめん]とは格段の相違にて、材木の数々河岸[かし]に山と積みながら、中々[なかなか]あやふやなる家多きは、一寸[ちょっと]他の商売に比を見がたき処なるべく、数代[すだい]の旧家として店搆へことごとしきも内部の意外にがたつき居るは、此[この]業者の特色として見るべきなり。されば当業者の中[うち]に其[その]名を知られし確[しか]としたる旧家は案外に少なく、木場町よりは本所一帯の地に、稍[やや]強固なる家多く、中にて辻村[つぢむら]たぎ善[ぜん]坂七[さかしち]等は大問屋として聞えたる店なり。

▼大身代…大きな資本家。
▲資本金

至極手堅き商売の如く見えながら、其実[そのじつ]いたく薄弱なるは材木屋の一特色なるが、従って其[その]資本金には非常なる差異あり、例へば小売として千円の資本にてやり居る者あるかと思へば、問屋として僅かに二百円位にて遣[やっ]て行く者もあるという次第にて、少しも標準の付かぬが又特色中の特色なるべく、他の営業の如く問屋は大に小売は小資本なりと、一様に見らるべきならず。然[しか]し旧家の強固なる向[むき]は何[いづ]れも充分の資本を有するは云ふまでもなし。


▲信用が資本

何故[なにゆゑ]前記の如く其[その]資本に馬鹿気[ばかげ]た相違あるかといふに、此[この]業者の資本と見るべきは一に現金を指したるものならで、多くは信用を基礎として営業を為[な]し行くものなればなり、されば問屋の奉公人が独立して営業を始めんとする時、主人の顔と永年の勤振[つとめぶり]にて、地方の荷主が中々[なかなか]金高[きんだか]の荷を借して呉[く]れるより、さてこそ二百円内外の有金[ありがね]もて、一躍問屋の列に入る事を得[う]るなり。

▼有金…現金。
▲取引

問屋の取引はいろいろにて殆[ほと]んど一定し居らず、つまり荷主は前以[まへもっ]て送荷[おくりに]し置き、己[おの]が任意に仕切に来るものなれば、これと規定の付けやうもなき訳なり、惣じて此[この]荷主といふもの、他の商売のと違ひて、何[いづ]れも気荒き連中のみなれば、中々[なかなか]危険千万の者多く、奥羽地方の手合[てあひ]は往々前金を取りて、其[その]荷は他人へ送り付け、知らぬ顔の半兵衛を極め込むなど、一筋縄では行かぬ代物[しれもの]少なからずとぞ。

▼気荒き連中…いさみ肌なお兄さんがた。
▼奥羽地方…陸奥と出羽。東北地方。
▼知らぬ顔の半兵衛…しらんぷりすること。
▲利益

は小売商にて平均一割が動かぬ処ながら貸倒[かしだをれ]が多きは常に当業者の苦しむ処なり、問屋の側にありても同じく小売へ貸[かし]が滞[たま]るものにて、多数の商家中奇麗に支払ふものは殆[ほと]んど皆無といふべからむ。


▲繁忙の時期

は毎年夏の初旬と、これに次[つい]では秋の初旬がよきものなりといふ。

あのままを柱にほしし花筏[はないかだ] 三華

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校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい