実業の栞(じつぎょうのしおり)貿易商

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貿易商

欧米諸国を相手としての貿易業は、其[その]開始を見てより日いまだ浅く、ここ十四五年来大[おほい]に発達を来[きた]したりとは云へ、猶[なほ]彼方[かなた]の国々に比べては幼稚の域にありと謂ふべし。さてこれら商人の淵叢[えんさう]ともいはるべきは、先[ま]づ横浜を最とすべく、これら次では関西にて神戸大阪地方さては遠く長崎の地にて、新潟函館の二港また五港の中[うち]にあれば、日に増し隆盛を極めつつあり。

▼淵叢…たまりば。
▲貿易品の種類

単に貿易商と云[いっ]ても各[かく][その]取引する品物に相違あり、尤[もっと]も幕末の頃[ころ]此業[このげふ]開始の時代は一家にて種々のものを取扱ひしが、今では皆[みな]分業の状態[ありさま]となれり。さて[わが]輸出品の重[おも]なるものは何人[なんびと]も知れるが如く、生糸[きいと]絹織物[きぬおりもの]製茶[せいちゃ]陶器[たうき]漆器[しっき]等にて、輸入品の重[おも]なるは砂糖[さたう]洋織物[やうおりもの]綿花[めんくわ]雑穀[ざっこく]石油[せきゆ]等して、前者の品物を取扱ふを輸出商と云ひ、後者を指して輸入商といふ。貿易商とは二者をすべての名称なり。

▼我…わがくにの。
▲仲次取引と直取引

貿易商は斯[か]く輸出輸入に分[わか]るるが上、猶[なほ]仲次取引[なかつぎとりひき]直取引[ぢきとりひき]の二つに分[わか]る。直取引は即[すなは]ち直輸出入[ぢきゆしゅつにふ]を指すものにて、これは資本[しほん][ゆたか]にかつ信用充分なるものにあらざれば、迚[とて]も其[その]営業を維持する事かたし。何故[なぜ]にといふにこれは海外の商人と直[ぢか]に取引を為[な]す事ゆゑ、先[まづ]何より始めに彼方[かなた]の信用を得[う]る事大切にして、延[ひい]ては其[その]信用を保持するに足るべき資本を要すればなり。されば目下の我[わが]貿易界は此[この]直取引[ぢきとりひき]を為[な]す者少く仲次取引とて外国商館の手を経て貿易に従事するもの多し。

▼直取引…直接取引。
▼彼方の信用…外国の会社からの信用。
▲資本と利益

さても此業[このげふ]の資本は決して、少額にては出来がたく、極小なる仲次取引にても先[まづ]五千円は要すべく、以上進んで十五万円位にて多くの商人は其業[そのげふ]を為[な]し行く事と見ば大差なからんかまた其[その]利益は荷主との取引具合為替相場の変動等によりて絶[たえ]ず支配せらるる事にて、これぞと極[きめ]ては述[のべ]がたし。


▲外国商館

にては従来一般に我[わが]貿易商の手を経て商品を集散せしも、近来は各方面の産地に支店等を設け、番頭などの名義にて直[ぢか]に荷主と商談を為[な]す者少[すくな]からず。これ畢竟中間に於[おけ]る我[わが]貿易商の利殖を防ぐの策に外[ほか]ならざるが、其[その]結果小資本の我[わが]貿易商は少[すくな]からぬ打撃を受け、遂に廃業の止[や]むなきに立至[たちいた]れるもの多しとぞ。


▲輸出商の状況

輸出品の重[おも]なるものは、前記の如くなるが、今その商人の状況を記[しる]せば △生糸商 新物の出盛[でさか]るは六月下旬の頃にて従って此期[このき]を最も繁忙なりとす。横浜にての重[おも]なる商店は、原合名会社[はらがうめいぐわいしゃ]茂木保平[もぎやすへい]渋沢商店[しぶさはしゃうてん]小野商店[をのしゃうてん]生糸合名会社[きいとがうめいがいしゃ]三井物産会社[みつゐぶっさんくわいしゃ]同伸会社[どうしんぐわいしゃ]等にて、原[はら]同伸[どうしん]生糸[きいと]三井[みつゐ]の会社は直輸出[ぢきゆしゅつ]なり。仲次外商は英一番ジャーデンマゼソン。ロビソン、ワインベルゲル、ビバンティーの各商会重[おも]なるものとす △屑物商 商品の性質上時期も自然生糸に伴ひ、森野川合名会社[もりのがはがうめいぐわいしゃ]矢島[やじま]丸山[まるやま]高橋[たかはし]の三商店其[その][おも]なるものなり △絹織物商 これも又時期生糸に伴ふものにて、菅川商会[すげがはしゃうくわい]原茂木[はらもぎ]の輸出部等名ある店にて、仲次外商はローゼンゾル、サイモン、コンス、サミユルストロームの各商会 △海産乾物商 は岡野利兵衛[をかのりへゑ]大谷幸兵衛[おほたにこうへゑ]鈴木常吉[すずきつねきち]安藤半七[あんどうはんしち]等重[おも]なるものにて仲次外商は広万泰[くわうまんたい]東同泰[とうどうたい]広誠和[くわうせいわ]等の清商[しんしゃう]が名あるもの也[なり] △製茶売込商 茶の新物は四月頃出盛[でさか]るものゆゑ其頃[そのころ]忙しく、大谷嘉兵衛[おほたにかへゑ]中条[ちうぢゃう][ほり]の両商店駿州屋[すんしうや]富士合資会社[ふじがうしぐわいしゃ]等何[いづ]れも直輸出[ぢきゆしゅつ]の名あるもの、亜米[あめ]三番ヘリヤ商会、英一番等は例の仲次商なり △綿布商 これには一定の時期なく、岩上合名会社[いはがみがうめいぐわいしゃ]綿屋商店[わたやしゃうてん][おも]たる店にて、清商永義和[えいぎわ]手広く仲次を業とせり △雑貨商 其名[そのな]の示すが如く、家具類より時計指環玩具等までをも取引するものにて、阿部商店[あべしゃうてん]其名[そのな]あるもの也[なり] △漢薬商 は人参[にんじん]薄荷[はくか]等の薬種[やくしゅ]を取引するものにて、小林桂助[こばやしけいすけ]榊伊助[さかきいすけ]長岡佐吉[ながをかさきち]等有名なる店なり △麦藁真田商 山口平三郎[やまぐちへいさぶらう]手広く之[これ]を取引し、主として欧洲に向け輸出せらるるが、中にも英仏二国は最もよき得意なりとぞ △陶磁器商 にては田代屋[たしろや]田島屋[たじまや]等有名にして、以上の諸品は何[いづ]れも欧米に向け輸出せらるるものなり。支那[しな]朝鮮[ちゃうせん]暹羅[しゃむ]等東洋地方との取引は、重[おも]に神戸長崎等の司[つかさど]る処なりと知るべし。

▼新物…その年の新生糸。
▼英一番…商館の番号。イギリス一番。
▼清商…清国人の商人。華僑。
▼製茶売込商…製品となったお茶をあつめて来て売買する商人。
▼茶の新物…その年の新茶。
▼亜米三番…商館の番号。アメリカ三番。
▼人参…高麗人参。
▼薄荷…ハッカ。
▼薬種…漢方薬の材料。
▼麦藁真田商…麦わらを編んでつくったもので、ストローハットなどの材料になります。
▼欧洲…ヨーロッパ。
▼英仏二国…イギリスとフランス。
▲輸入商の状況

△砂糖商 には増田屋商店[ますだやしゃうてん]阿部幸兵衛[あべこうべゑ]谷川屋[たにがはや]清商順和義[じゅんわぎ]等名あり △洋織物洋糸商 には薩摩治兵衛[さつまぢへゑ]、前川太郎兵衛[まへかはたろうべゑ]、柿沼谷蔵[かきぬまたにぞう]等の横浜支店盛[さかん]に取引し △米商は七八月最も多忙を極[きは]め、旭商会[あさひしゃうくわい]鈴木弁三[すずきべんざう]等大なるものにして、清商東同泰[とうどうたい]広万泰[くわうまんたい]広誠和[くわうせいわ]等もまた之[これ]を営[いとな]めり △印度藍商 これは九月頃に出て十一月頃入津[にふしん]すを常とし、取引盛[さかん]なるは福本商店[ふくもとしゃうてん]フインドレーリチャードソン商会 △鉄類商 は岩崎合名会社[いはさきがうめいぐわいしゃ]柳下商店[やなぎしたしゃうてん] △雑穀商 は米商にて兼[かね]るものあれど、概して別個の業となれり、小宮[こみや]田原[たはら]二商店山口平三郎[やまぐちへいざぶらう]等名あるもの △皮革商 は太平屋[たいへいや]後藤商店[ごとうしゃうてん] △石油商 はスタンダードオイル会社最も盛大にて通常チャスターと呼ぶもの主として取引せらる △綿花商 十一二月頃時期にして、日比谷綿花部[ひびやめんくわぶ]サミユルストトン、コーンス等の商会盛[さかん]に之[これ]が取引を為[な]せり △雑貨商 にてはウインクレル商会最も名あり。

積込の波止場にぎわふ新茶かな 疎山

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▼入津…港にやって来る。
▼スタンダードオイル会社…ロックフェラーがつくった石油会社。創業は明治2年(1870)
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい