実業の栞(じつぎょうのしおり)靴商

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靴商

[この]商売は今より三十四年前[ぜん]明治二年仏国人[ふつこくじん]マーセンといふ者、始めて京橋区銀座通へ商店を開きしが抑々[そもそも] にて、其頃[そのころ]より現時[げんじ]まで引続きて業を為[な]し居る旧家は、櫻組[さくらぐみ]の西村勝三[にしむらかつざう]伊勢勝[いせかつ])なりとす。

▼明治二年…1869年。
▼仏国人…フランスの人。
▼現時…現在。
▲問屋と資本

問屋は東京市内に十数軒あり、此中[このうち]には専属の製造所を有し、他の製造所にて作成したる品は卸売[おろしうり]せざるものと、弘[ひろ]く諸製造所の製靴[せいくつ]を卸売するものとありて、資本は数万円より以下二三万円にても出来得れど、兎[と]に角[かく]問屋と云はるるには、少なくとも一万円の資本は入用[にふよう]なり。


▲利益と取引

利益は品の上下によりて一定せざれど、平均一割五分位は確[たしか]なり。取引は重[おも]に地方商人との間に行はれ、市内の方は極めて少数にて最も繁忙なるは例年三四月の頃なり。凡[す]べて現金取引が規定なれど、信用ある向[むき]には一ヶ月の延取引[のべとりひき]をも為[な]し居[をれ]り。

▼信用ある向…信用のある店。
▲仲買

俗に鞘取[さやとり]と云ひて、常に問屋へ出入[でいり]すれど、不通の仲買と異[ことな]る処は靴の仲買はせず、多くは原料なる象皮[ぞうひ]等を革問屋より借来[かりきた]りて、靴問屋へ売渡す事なり。其[その]口銭[こうせん]は五分位ながら、皮によりて二三分位なるもあり。


▲御用商人

陸海軍を主として、弘く諸官省の納品を請合[うけあ]ふもの、何[いづ]れも○○にコンミッションを贈るはいふまでもなく、之[これ]を差引きても猶[なほ]一割二分位の利を得[う]る事容易にりと云へば、如何[いか]に其[その]利の莫大なるかは知らるべし。

▼コンミッションを贈る…そでのした。
▲小売商

と云っても真[しん]の靴専門の店は、下谷区池の端[いけのはた]仲町の塚田屋[つかだや]、芝区露月町の大塚[おほつか][ほか][わづか]二軒に過ぎず又外国の輸入品を取扱ふは京橋区南伝馬町の鞆絵屋[ともゑや]と前記塚田屋の二軒なり。上等品を販売するとなりては五千円以上の資本は要すべきも、傍[かたは]ら修繕を業とせば僅に百円の資本にても出来得べし。利益は男子用と婦人用とによりて異[ことな]れど、平均三割は確かなりとす。婦人用は男子用に比べて割合よけれど現時の処にては未[いま]だ充分に数が出[いで]ねば、結局男子用の需要多きに如[し]かず。


▲困難なる時期

入梅[にふばい]の頃にて、稍[やや]もすれば製品にホシの出る恐れあり、古靴屋の如きは一層の苦境にて、総体に黴[かび]を生ずるより、其[その]手入なかなか忙しけれど、修繕に重きを置く製造者は、此頃[このころ]直しの繁忙を極むる事とて大喜悦[だいきゃうえつ]なり。但し直しの利益は殆[ほと]んど五割に相当すといふ。

▼入梅…梅雨の時期。
▼ホシ…かびがぽつぽつ生えちゃう。
▼直し…くつの修理。
▼大喜悦…おおよろこび。
▲売口よき靴

昨年などは赤皮製[あかがはせい]非常に流行を極めしも、本年に入りては又黒皮製[くろがはせい][さば]けよくなりたり。贅沢[ぜいたく]なる人は種々の好みをなせど、十中の八九は深護謨[ふかごむ]にて代価は四五円の処、半靴[はんぐつ]は三円内外の辺至極売口[うれくち]よろし。靴墨[くつずみ]はクリームが塗るに世話なければとて売口よく、斯[かか]る付属品は至って利益多く殆[ほと]んど四割の上に出[い]づ。さて礼式用の靴は元より利益多きものなれど、捌口[さばけぐち]少なければ目下は割に合はぬ物の中[うち]に数へられ居[を]れり。惣じて靴の売口よき時期は、春季三四月の頃にして最も閑散なるは暑中休暇の明けるまでなり。

▼売口よろし…よく売れます。
▲浅草出来の靴

といふは亀岡町(俚俗[りぞく]新町)の製品にて、東京市内には此[この]製品を販売する小売店が、十中の八九を占め居れり。其[その]直段[ねだん]は至って廉価[れんか]にて、他[た]の製靴所にて五円もする物も、亀岡町のなれば三円か二円五十銭位にて、一見少しの差異も見えざれど、其[その]からくりは底皮[そこがは]等に似而非[いかさま]なるを用ひたるが多く、傷ある皮は更にも云はず、心[しん]にボール紙を挟み厚皮を用ひたる如くに見せたる、表皮[おもてがは]に摺[すれ]あれば糊[のり]も敷き、皺[しわ]あれば麩糊[ふのり]を敷いて直すなど、あらゆる奸手段[かんしゅだん]を施したるが多しされど一概に偽物[いかもの]のみなりとは云ひ難く、中には正品[しゃうひん]もなきにあらず。

▼廉価…おやすい。
▲靴の意匠

は他[た]の外国品と違ひ、余り各国の流行を追はず、僅に装飾等に何程[いかほど]かの新案を施すに止[とど]まる。深護謨[ふかごむ]の如きは西洋諸国にてはマドロス用もしくは老人履[ろうじんばき]として卑[いや]しめど、我国にては晴雨両用に役立つのみか、半靴[はんぐつ]と異[ことな]りて靴下の損じ少なければ常に需要多く、総じて形状等には左程重きを置かず、唯[ただ]穿[は]きよきを専一[せんいつ]とする傾向[かたむき]あり。

むすぶ手に花のしづくや靴の紐 一歩

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▼老人履…としよりのはきもの。
▼晴雨両用…雨のときにも晴れのときにも履けて便利ダ。
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい