実業の栞(じつぎょうのしおり)花見茶屋

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花見茶屋

春季墨堤[ぼくてい]は云ふまでもなく、到る処の花見場所に茅葺[かやぶき]掘立[ほったて]の掛茶屋[かけぢゃや]を設けて、慈姑[くわゐ]の串刺[くしざし]茹玉子[ゆでたまご][あるひ]は鮓[すし]汁粉[しるこ]等を商ふ商人あり。墨陀[ぼくだ]の如きは、都下の名所として常に雅人の杖を曳[ひ]く者の絶えねば、花の時ばかり開業する茶屋のみならず、常設の小屋さへ建築しありて、花期以外にも営業を続くる者多し。

▼墨堤…隅田川の土手。墨田の堤。
▼慈姑の串刺…くわいの皮をむいて竹串にさし、ゆでたたべもの。
▼墨陀…隅田・隅田の漢語調の呼び方。
▼杖を曳く者…観光客。
▲資本

とも云ふべきは小屋が自己の所有なれば借料[しゃくれう]を要せざる事[こと]勿論[もちろん]なれど、多くはそれぞれ所有主より借り受けて、営業所とす。其[その]家賃は凡[すべ]て前納[ぜんなふ]の規定にて、花期四十日間を限れど、雨天続きの時は自然家主へ泣[なき]を入れる事あり、此時[このとき]は人情として何程かを返却しやる事ありといふ。さて同じ墨堤にても三囲[みめぐり]付近上等場所の小屋代と、白髭[しらひげ]付近の借料とは代価に大いなる相違あるは云[いふ]までもなく、上等場所は間口三間に奥行二間の小屋にて、約[およそ]四十日間十二三円以上なり。以下は六七円位を下等の部とす。斯[かく]て商人の此位の小屋を借りるとして、差詰[さしづ]め他に要すべきは、椽台[えんだい]六脚位と赤毛布[あかげっと]、食物[くひもの]を並ぶる器具夜台[やたい]等にて、女中三人位は入用なるが、一日の雇料[やとひれう]大凡[おほよそ]日当十銭内外なり。暖簾[のれん]は近来広告の為ビール会社売薬屋等より寄贈あればさして差支[さしつかへ]を覚えざれど万一なき時には古物[こぶつ]にても買求めざる可[べ]からず、総[すべ]て之等[これら]の器具より茶碗[ちゃわん]莨盆[たばこぼん]等一切を購求するとせば、売物の仕込金は別として、少なくも数十金を要すべし。

▼借料…借り賃。
▼三囲…三囲神社。
▼白髭…白髭神社。
▼赤毛布…緋毛氈。
▼古物…古道具屋さんに出てるもの。
▲仕込金

は鮓[すし]などにて十円以上慈姑[くわゐ]蜜柑[みかん]玉子等にても五円位は入用なり、之[これ]とても多くは問屋へ現金払にて、また数年向島[むかうじま]へ掛茶屋を出し、自然問屋にも古顔[ふるがほ]となり。信用ある者は売揚勘定[うりあげかんぢゃう]にて済む事となる也。

▼古顔…かおなじみ。
▲利益

は人の出[で]或は晴雨[せいう]によりて売揚[うりあげ]に影響し中以上の人出多き時は割烹店[かっぽうてん]等は実入[みいり]よきも、掛茶屋は少しも実入なきを例とすれど、総じて向島は花の散る頃とならねば、中以下の人出はなし。此時には職工も花見に来れば、裏店[うらだな]の女房も来るといふ状態[ありさま]なれば、従って掛茶屋へ休息する者多く、中々[なかなか]実入ある由[よし]。利益は予想し難[がた]きも、三囲付近の河付[かはづき]上等場所にては、品物の売揚[うりあげ]日に五六円もありて、大抵五割位の儲[まうけ]あり、茶代は職工等の銭放[ぜにばなれ]よき連中が玉子を二個も食して、廿銭も置くが上等の部なり。されば五六円の商売をしても大方は茶代僅[わづか]に一円内外なりと。

▼割烹店…料理屋。
▼職工…町の職人衆たち。
▲営業時間

其筋[そのすぢ]の規定ありて、午前六時より午後六時迄を限[かぎり]とし、以後は開店を許さず。併[しか]し三十分位は花期中警官も大目に見る事あり。

▼其筋…警視庁。
▲営業時間中の困難

はなかなかにて、例へば午前の内曇天[どんてん]なりとも、雨降出[あめふりい]でざれば売物[うりもの]を相当に仕込む要あり、斯[か]くて客を待つ内[うち]人の出る時刻になりて、雨の降り来る事あれば、客は皆[みな]帰途を急ぎて散ずるより、折角[せっかく]の仕入も滅茶々々[めちゃめちゃ]となり翌日に持越される品はよけれど、宵越[よひごし]の出来ぬ品は已[や]むなく惣菜[そうざい]に食し、仕込金を喰込むに至る。此場合所持金なれば利息の出る事なく、唯[ただ]自己が泣く計[ばか]りなれど、若[も]し高利を借りて仕込みしものなれば、利息は用捨なく金貸[かねかし]に取らるる事となり其[その]困難大方ならず。

▼曇天…くもり空。
▼宵越しの出来ぬ品…日持ちのしない食品。
▲掛茶屋の盛期

は花期を四十日として雨天を除きて平均を取れば、例年僅[わづか]に三日間位より盛況を極[きは]むる日数なく、其余[そのよ]は大同小異なり。


▲出店者

の多くは、此[この]掛茶屋に経験ある際物師[きはものし]が山を張り、甘[うま]く行けば資本より二三十円を儲け悪く行けば身代限[しんだいかぎり]をなす了簡[れうけん]にて掛るが多し。されど諸掛りだけ取返すにさへ骨が折れるより、流石[さすが]の際物師も見切りを付け毎年此出店を廃せしもありて十中の七八は失敗する者多く、先年の如きは浅草観音の開帳もあれば、定めし賑[にぎは]ふならんと想像して出店せしも多けれどいたく不景気の影響を受け、大こぼしにこぼしたり。

▼資本…もとで。
▼身代限…破産。
▲掛茶屋の数

言問[こととひ]前迄常設を合算して十数軒あり。白髭[しらひげ]迄を合計する時は三十余軒なり。近年は女中を雇入[やとひい]るるは僅[わづか]数軒に過ぎず、ビヤホール等が数人の女中を雇入るる位にて、掛茶屋の内にても巻莨[まきたばこ]を商ふ小屋多く、真の掛茶屋は割合に少なき比例なり。さて此[この]掛茶屋には宿泊出来ざる定めなれど、毎朝椽台[えんだい]等を自宅より担[かつ]ぎ来る訳にも行かねば、留守番兼用として不寝番[ねずばん]の如く起臥[きが]するなり。

天来の落花模様や赤毛布[あかゲット] 清之

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▼言問…言問橋。
▼白髭…白髭神社。
▼起臥…寝起きする。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい